家のこと、あるいは特定の場所や人との関係について、私たちは「居場所」を求めようとします。ときには「居場所」が見つからず、世界をさまよい続けるほど、それがないと、生きていくのが困難なこともあるのです。しかし、居場所はもとから「ある」ものではありせん。最初から家は家ではなく、家族は「ある」ものではなく「する」もの、つくっていくもの。ちょっとした努力さえすれば、心地よい居場所は、ちゃんとできます。
Contents.
ネコは基本的に単独生活者
ネコを飼っていました。
息子が小学生のときに、近くのスーパーの入り口で拾ってきたのです。
粗末なカゴに入れられ、ちぎった紙切れに「ただであげます」と書いてありました。
生後1カ月に満たないくらいの子ネコで、尻尾が半分に折れています。
生まれてすぐに、何かの病気か事故に遭ったのでしょう。
人を警戒するように目つきは鋭く、それから数年経っても、脅えた表情のままでした。
ネコは、きれい好きです。
汚れた餌の器はあからさまにいやな顔をしますし、トイレも汚れていると、オシッコを外に飛ばして、嫌がらせをしたりします。
用を足したあとは、あとを残さないように穴を掘って見えなくします。
ご飯のあとは毛づくろいをしますので、毛はいつも艶やかです。
子どもの頃、犬を飼ったことがありました。
17年も生きましたが、老いても家族とじゃれ合って、いつも人との肌の触れ合いを求めていました。
ネコが犬のように甘えてくることは滅多にありません。
気の向いたときに、あぐらのなかに入って、寝ることくらいです。
遊んであげようと思っても、ほとんどは知らんふり。
逆に迷惑そうな顔をされることもしょっちゅうです。
かまってほしいときには、こちらの身体にすり寄ってくることもあります。
勝手なものです。
遊んだあとには爪とぎをしますが、自分が満足すると、もういいから、あっちに行ってといった顔をします。
犬は「集団生活者」で、ネコは「単独生活者」と区別されるのだそうです。
ネコは、一人でいるのが好きなのです。
でも、一人でいるのはさびしそうに見えます。
by CASA SCHWANCK
心地よさを探すための方法
ネコを観察していますと、季節や毎日の時間帯で、少しずつ居場所を変えていることに気付きます。
暑い夏の日は日差しを避けて涼しい場所。
風が通る場所を見つけ、そこに移動し、じっとしています。
朝はリビングのドア付近、暑さがきびしくなる午後は階段の踊り場。
上手に日差しを避けて、風の通り道を探すのです。
冬の寒い日は、お日さまが当たる場所。
午前は東側の窓のそば。
2階に陽射しが差し込む時間になると、ちゃんと2階に上がって行って、日差しの角度の変化に応じて、場所を変え、寝る場所を探しています。
夜は、暖房機の近くでゴロン。
わが家の冬は24時間暖房ですので、まずは暖房機の前に陣取り、そこに飽きたらソファの端っこに寝そべり、クッションに寄りかかって寝ています。
熟睡しているときは、バンザイをしながら白いお腹を見せて、ひっくり返っています。
まだ若いときには、2メートルもの高さのある箪笥の上に昇って寝ていることもありました。
しかし、老いるにしたがい、そんな高さまで飛び上がることもできなくなっていきました。
人にもネコにも、必ず老いはやってくるのです。
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縄張りと居場所の違いとは
いつも自分の毛を舐めて、毛づくろいをしていました。
体臭を消して、天敵に気付かれないようにする意味があるそうです。
毛づくろいのときの目をみると、恍惚としているように見えます。
至福の時間なのでしょう。
夏は毛を舐めることで体温を下げ、冬は毛に空気層を作り出し、保温効果で体温を維持するといいます。
どんな場所でも、頭を入り口に向けて寝そべることにも気づきました。
寝ているときでも、小さな音や気配にさえ耳がアンテナになって、ピクピク動いています。
危険を感じると、いつでも逃げ出すことができるようにしているのです。
縄張り意識が高いことも、ネコの特徴。
わが家のネコは、家のなかでしか行動できないのですが、庭はいろんなネコの通り道になっています。
庭を通るネコの気配を感じると、外に聞こえるような大きな声で威嚇します。
自分のお気入りの場所=テリトリー=に家族が入り込むときには、迷惑そうな顔をします。
敵ではないとわかってはいるものの、顔にはちゃんと「ここは俺の居場所だからな」と書いてあるのがわかります。
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愛猫が危篤になったあの日
肺に水が溜まって、危篤状態となったことがありました。
なんだか鳴き声がか細くなった、と気づいたときから急に動けなくなり、二つの目だけが宝石のようにきらきらと光っていました。
私や家族に「これまで、ありがとう」と必死に訴えかけているようにも見えました。
すぐに病院に連れていきました。
お医者さんからは、もうだめかもしれないと宣告を受けました。
娘も息子も遠く離れた場所で暮らしています。
彼らにとっても、人生の大半を一緒に過ごした家族です。
深夜でしたが、一人ずつ電話をかけて、受話器越しにお別れをいうよう伝えました。
仕事でどうしても帰ることのできない息子は、半泣きで「これまで、ありがとうね」と何度も何度も、受話器に語りかけました。
息子は、このネコを拾った父親のような存在です。
娘は翌朝早く、新幹線で駆けつけてきました。
駅に迎えに行くと、目は妖怪みたいに真っ赤に腫れ上がり、新幹線のなかで泣いてきたことがうかがえました。
家に着くなり、ネコを抱きあげ「これまで、ありがとう」と、頬ずりしました。
その日もまた、娘とカミさんと3人で病院に行って、肺の水を抜いてもらいました。
息をするのだけでも、楽にしてあげたいと思ったのです。
その日の治療を終えると、ネコは途端に元気になり、家に帰ると少しずつ歩き出しました。
翌日には、以前のように「ミャー」と鳴いて、表情もぐんぐん明るくなっていったのです。
娘は「よかった、よかった」と少し拍子抜けした様子で、新幹線代かかったんだからといって、その日の午後、帰っていきました。
表情は満面、明るくなっていました。
息子に電話をすると「じゃあ、帰らなくてよかった」と電話でいいました。
よかった、よかった、ほんとに、よかった。
何度もそういいました。
ネコはそのあとも、2カ月に一度の割合で通院を続け、次第に元気になっていきました。
でも、あの日を境に、めっきり静かになり、家の中を移動をすることもあまりなくなりました。
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ヒュッゲの根底にあるもの
デンマーク語で「居心地がいい時間や空間」のことを「Hygge=ヒュッゲ」といい、日本でもブームになっているようです。
薪ストーブの炎を眺めながら「今夜はとてもヒュッゲリな夜ですね」などと語り合うのでしょうか。
癒しの時間、ほっこりする時間、誰かとの一体感、安心感など、上手な和訳がないという記述が多いのですが、日本語の「居心地」、心地のいい「居場所」を充てていいのではないかと思います。
その「ヒュッゲ」を味わうためには、それなりの空間、間取り、設備、家具、照明、家具、ファブリックが必要、と結局は消費に導かれていくのが、いまの日本の特徴でもあります。
ここで思い出すのが、わが家のネコのことです。
ネコは、どんな環境でも、その折々で最高の居場所を見つけ、そこで安らぎ、くつろぐことを知っています。
彼らが常にだらだらと過ごし、何も考えていないわけではありません。
むしろ、常に知恵を絞り、積極的に居心地を探、創造しているのです。
食べる、語る、入浴する、排せつする、寝る。
それら全てが生活。
生活には、かなり多くの「だらだらした時間」も含まれます。
意味もなく「ぶらぶらしている」時間、「ただぼんやりした」時間、そして少しも生産的ではないように見える「意味のない会話」も、実は、創造的な生活なのです。
by CASA SCHWANCK
だらだら・ぼんやりの時間
だらだら・ぼんやりしているとき、意味のない会話に「意味がないか」といえば、そうではありません。
私たちは無意識に、その場、その時間に心地よさを感じているから、そうしてしているのです。
特に何かをしているわけではないけれど、ほかに用事がなければ、このままの状態でいたい――ことを許してくれる環境、時間が、居心地のよさであり、その折々の居場所と言い換えてもいいでしょう。
機能的なキッチン、座り心地のいいソファ、ぐっすり眠れるベッド、陽当たりのいいリビング、冬の夜の暖炉の炎――など、機能やゆたかさをボキャブラリで捉えているうちは、ほんとうのゆたかさも、居心地も遠ざかるばかり。
居心地のよさ、心休まる居場所とは、ネコがそうするように、努めて創り続けていかなくてはならないものです。
デンマークの「ヒュッゲ」も、家の有り様、設備や家具などモノに依存して成立するものはなく、時間的、空間的――以前も書いた「間」――のようなところに歓び、ゆたかさを見出す努力に裏打ちされたものといえます。
仕事が早く終わっても真っ直ぐに帰宅せず、街をさまようサラリーマンの話を聞いたことがあります。
家に居場所がない、家にいても楽しくないと、深夜まで、繁華街をたむろする子どもたちも少なくありません。
家に帰っても、家族がそれぞれの個室でパソコンやスマホ。
究極の機能や動線、理想の空間、間取りを求めて体現したわが家に、だらだらできる時間、ぼんやりできる場所、意味のない会話を続けられる家族の関係があるでしょうか。
私たちは、生きることに、意味ばかり求めてきたようです。
家族にとっての「居場所」のキーワードは、だらだら・ぼんやり・意味もなく、にあるのかもしれません。
by CASA SCHWANCK
意味もなくそこに居ること
一時は死線をさまよったわが家のネコでしたが、3年後、旅立ちの日がやってきました。
また、肺に水が溜まり、そこにいくつかの病状が重なりました。
あの危篤状態から、3年も生きてくれたのです。
すでに、老衰に近い状態でした。
最期の数日は、紙のように薄く痩せた身体を細い足で支え、居場所を求め、ヨロヨロと家の中をさまよいました。
あるときは、階段下の風通しのいい場所。
あるときは、お風呂のタイルの上。
また、あるときは、キッチンのワゴンの下。
共通していたのは、どこも、私たちの目の届かない場所だったことでした。
最期の姿を見せたくなかったのでしょう。
これまで行ったことのない場所ばかり選び、静かに横になっているのです。
その日は、もう動くことができなくなりました。
何枚もの厚手のタオルで寝床をつくり、軽い掛け布団をこしらえました。
毛の上からふれても、体温が下がっていくのがわかります。
遠くに住む子どもたちとも、今度こそ、ほんとうのお別れです。
「がんばれ」は言わないことと決め、電話の向こうからの「ありがとう」を耳元で聞かせました。
身体は動かなくても、2つの瞳は、いつものように宝石みたいに、澄んで光っていました。
私がトイレ、妻が別の部屋に移動したほんの1、2分の間に、彼は息を引き取ったのでした。
だらだら、ぼんやり、意味などなくても、無条件でそこに「居る」ことを許し合える関係を、家族といいます。
その家族は、思ったよりも繊細で壊れやすいといった特性があります。
家族はもとからそこに「ある」ものではなく、家族を「する」ことを地道に続けないと、維持することは容易ではないのです。
とはいえ、それぞれが居場所を創ろうとする小さな意志さえあれば、家族は家族であり続け、家は必ず「うち」となり、その「うち」はいつしか心地のよい「居場所」に替わります。
18年一緒に生きてくれた、わが家のネコに教わったことです。
ただ、だらだら・ぼんやり・意味もなく
そこに居られる空間が、
居心地のいい家族、空間かもしれません。