Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【家の記憶】=初めてなのに懐かしい、そんな家のたたずまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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どこかで会ったような気がする人がいます。どこかで見たような風景、家。思い出そうとしても、なかなか記憶が甦らない。それは既視感=デジャビュかもしれません。曖昧だけれど、どこか懐かしく、温かい。ひょっとして、前世で出合った風景や人なのでしょうか。
 

Contents.

 

既視感と未視感の狭間

初めて訪れた街や風景、お寺、民家などに、なんだか懐かしい、どこかで見たことがあるかも、という感覚を覚えることがあります。

 

このように、いま自分が見ている風景が、いつかどこかで見た風景のような気がする感覚を「既視感」といいます。

風景と書きましたが、ときには形であったり、ふれた感触、色、動き、音、物事の流れ、会話などさまざまです。

 

フランス語では「déjà vu=デジャビュ」。

フランスの超心理学者エミール・ブワラックが、シカゴ大学在学中の1917年に書いた「超心理学の将来」でこの言葉が使われました。

 

「déjà vu=デジャビュ」とは逆に、見慣れた風景や体験が初めてのように感じられることを「jamais vu=ジャメヴュ=未視感」といいます。

 

ある研究では、デジャビュを体験する人の割合は健常者で3分の2以上で、場所のデジャビュが人のデジャビュよりも上回るという結果が示されています。

超能力として扱われた時代もありましたが、これだけ多くの人が体験することもあって、いまでは通常の感覚と捉えられることが多くなりました。

 

初めて見る、体験しているはずなのに、なんだか懐かしいというこの感覚は、物悲しさとは違いますし、うれしさ、楽しさというのでもありません。

 

言葉ではいい表せない気持ちなのですが、決していやな気持ちではなく、心が温かくなって、こんなところに一度は住んでみたいなあ、といった感覚に近いといえます。

 

 

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人類には共通した記憶

人は誰しも、その人固有の記憶を持っています。

その記憶は、その人でしか持ち得ない物語といってもいいでしょう。

 

2人並んで同じ風景、あるいは同じ音を見たり聴いたりしても、2人が同じ感覚を抱くとは限りません。

何とも思わない人もいるでしょうし、無性に懐かしい感覚を持つ人もいるでしょう。

 

しかし、たくさんの人が同時に自分の物語を重ねることができることもあります。

 

例えば、童謡。

 

好き嫌いはあるにせよ、多くの人の心を同時に揺さぶり、懐かしく、温かな気持ちにさせます。

目にしたりふれたりすることで、多くの人を同時に個々の記憶のなかに誘うような家や風景、場面もあります。

 

それらを既視感=デジャビュというのはたやすいですが、個々の人の心の奥底にある記憶のもっと先には、人類に共通した意識のようなものが流れているのではないでしょうか。

 

外国の人たちが京都の街並みや寺院を絶賛したり、私たちが初めて訪れる――たとえば、パリやヘルシンキの街並み、ラオスやバリ島の農村などで目にする風景や芸術に感動するのも、民族や文化を超えたところに存在する、人類共通の意識のようなものといえそうです。

 

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シェーカーの家に学ぶ

そうした感覚を覚える家は、古い造りの家とは限りません。

伝統的な家でなくとも、意外と「懐かしい感じのする家」が身近にあることに気づきます。

 

個人的にはシェーカー教徒の住居や100年も前に日本で活躍した建築家・ヴォーリズが手がけた家などが、その部類に入ります。

海外の家、外国の人が手がけたにもかかわらず、日本の伝統民家を見たり、ふれたりするのと同じくらい、不思議な懐かしさと温もりを感じます。

 

どんな地方を歩いていても、なんだろう、この懐かしさはという建物は、必ずあるものです。

 

 

 

そうした家に共通するのは、何なのでしょう。

 

一言で表すには勇気が必要ですが、斬新過ぎない、造り過ぎない、機能的過ぎない、装飾的過ぎない、などといえるかもしれません。

 

曖昧な部分、つまり「間」こそ、実は曖昧ではなく、緻密に計算されるものなのですが、私たちはなかなかそこに気づきません。

 

ここでいう「間」とは、余白であったり、間取りであったり、時間であったりします。

それらは一様に、静謐です。

 

日本人が古くから家の構造を表現するのに「間」という言葉を使ってきたのは、機能やデザインの一部を意図的に放棄し、そこに時間という「間」を挟み込んで考えることを重視したからではないでしょうか。

 

空間も、時間も、同じ「間」なのです。

もう一つ、人間にも「間」。

 

私たち日本人は、便利なこと、隙間のないこと、機能的に優れていることの対極にある「間」にこそ、自分の記憶や物語を重ね、宇宙を見出してきたともいえます。

 

何にでも「過ぎる」家には「間」も「余白」もないために、自分の物語を重ねることが許されないのです。

人にも同じことがいえはしないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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消化不良になる家とは

私たちの記憶や物語は、いろんなところに存在しています。

 

目に見えるようで、見えないところ。

家族のなか、人と物との間、場所と場所、時間と時間の隙間。

家の隅っこ、端っこ。

人と風景との間――など、あらゆるところに潜んでいて、あるときふっと甦り、心をツンと突いてくるのです。

 

どんな言葉を使ってもいい表せるものではなく、それ自体が曖昧でありながら、しなやかに存在するというものでもあります。

 

工法や間取り、家具やインテリアを決められずに、疲弊しきっているご家族をよく見かけます。

 

反対に、建築家やハウスメーカーが、強引ともいえるプランを提示し、「あなたが住むべき家はこんな家です」といわんばかりに、住まい手を引きずり回すような家もあります。

家族は仕方なしに、その型に、自分たちを合わせて暮らしていくのです。

 

共通しているのは、どちらも完成後は家族全員が常に消化不良の状態を余儀なくされること。

 

私たちは無意識に、逃げ場を探しています。

しかし、逃げ場を探すことは弱さではありません。

逃げ場も「間」。

とすれば、そこで発見されるのは、深さのなのです。

 

 

 

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自分だけの物語を辿る

あえて完成を求めず、流れゆく時間とともに彷徨する「余白」を潜ませた家こそ、未来に継承し得る「記憶」を紡げる家になるのではないか、とは少し乱暴な考えかもしれません。

 

しかし、機能の高さ、複雑さに目を奪われ、生活の単純さという、もっとも大切なことを忘れた家や暮らしに、物語を紡ぐ「間」を見つけるのは至難の業です。

 

アメリカでは、1階、2階のことをthe first story、the second storyということがあります。

 

This building has three stories=は、「この建物には3つのstory(=物語=階・層)がある」ということ。

外国語の世界でも、家に「物語」を重ねて考えるのは、とても面白いことです。

 

懐かしい風景、音、光、素材、香り、味覚などご自分の「五感」のデジャブを辿っていくことの大切さは、ここでも何度か書きました。

 

プランに困ったら、パズル合わせのように間取りや空間を考えず、記憶にある家や人、風景、時間に漂う物語をあぶり出し、いったん設計者に委ねてみる、というのも一つの方法です。

 

松山巌さんが書かれた「建築はほほえむ」のなかにある、大好きな文章です。

 

一度、建物を建てる場所から離れて、

あなたが好きだなと感じる場所を考えてみよう。

あなたが気持ちよいと感じる

場所を考えてみよう。

あなたが好きな人、

愛して欲しいと思っている人に、

自分が好きだな、

気持ちがよいと感じる場所を教えてあげよう。

もしかしてそれは、

子どもじみたことだとあなたは思うかもしれない。

では今度は、

大人になった自分から離れて、

子どもになったつもりで、

好きだな、気持ちがよいと感じる場所を考えてみよう。

(中略)

もし、他の人も好きだな、

気持ちがいいと感じるような場所が見つけられたなら、

その場所にはなにか秩序があるはずだ。

その秩序を見つけたとき、

好きな場所、

気持ちのいい場所を発見した歓びは倍増するだろう。

 

 

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In summary

開発された新しい住宅地はもちろん、古い街並みを訪ねても、また廃墟が一つ増えてしまった感覚に陥ってしまうのはなぜでしょう。

新しいものよりも、古い町家や裏道が街のゆたかさを湛えているのは、私たち自身が懐かしさをないがしろにしてきたからかもしれません。