芸術は【引き算】から生まれる、といわれます。建築、文章、写真、家づくりにも同じことがいえそうです。毎日の仕事、家事だって、引き算の繰り返し。過剰さで価値を計るのではなく、無駄を省き、主題を浮き彫りにすることは至難の業です。そのあとに【余韻】を醸すことができれば、ほんもの、なのですが。
Contents.
足し算の人と引き算の人
ポスターやパンフレットのデザインとは異なり、雑誌や書籍のデザインはエディトリアルデザインの分野に入ります。
専門的にいうと、書籍の場合は装幀という専門分野が存在し、雑誌などのデザインとも一線を画します。
限られた誌面に過剰なケイ線、必要以上に大き目の活字、そこまで大きく、増やさなくてもいい写真――など、とにかく多くの情報を詰め込むタイプのデザイナーがいる反面、可能な限り余白を生かし、シンプルに徹するデザイナーもいます。
30年後に誌面を開いて、古さを感じさせないのは、100%後者です。
自分の写真も、ほかのカメラマンの作品でも、大切にしているのは、キャプション(写真説明)を付けられる写真かどうか。
要点を絞り切って、主題を明確にした写真は、キャプションを付けるのも容易です。(今回ここで使っているイメージ写真なので、その限りではありません)
どんなにきれいで見た目のいい写真でも、主題=伝達したいことを絞り切れていない写真はキャプションが付けられない。
カメラマンが「きれいさ」を優先しているのか、1枚の写真の「ストーリー」を大事しているかは、写真1枚を見るだけでわかります。
その「ストーリー」を可能な限りの無駄を削いで表現できるか否かが、永遠の課題なのです。
無駄を削いだ日本の文化
日本の文化や芸術は特に、シンプルさを旨とするものが多いのが特長です。
建築では茶室の設計がそうですし、茶道や華道なども足し算の芸術ではなく、引き算の美学を求めます。
能もその一つ。
無駄なものを省いた最小限の舞台設定、振り付け、舞いの表情。
全てが、そのシンプルさゆえに、観客の想像力が求められます。
囃子方は、笛・小鼓・大鼓・太鼓のみ。
音楽を奏でるというものではなく、むしろ音と音の「間」にある「無音」を聴かせるのです。
俳句は5・7・5という数の言葉で宇宙をも表現しようとする文学です。
大事にされるのが「切れ字」。
「かな」「や」「けり」
の三つの語をいいますが、これらで音調を整え、感動、詠嘆を表し、事実の断定、余韻まで醸そうとします。
変わらないことのすごみ
仕事柄、たくさんの事務用品を使います。
なかでも、最も使用頻度の高いものが筆記用具です。
鉛筆は2B、ボールペンは黒でも赤でも極太。
鉛筆の形状は何十年と変わりません。
子どもの頃から使っていますので、指が鉛筆の塗装の摩擦の具合まで記憶しています。
私の場合、細字のボールペンは役に立ちません。
結局、どんなボールペンがいいかというと鉛筆同様、10年20年と変わらない、単純なデザインのものを使ってしまいます。
単純なものって、なかなか人目をひきません。
何十年も前と同じデザインの鉛筆やボールペン、大学ノートを「カッコいい」と感動して眺める人はいないでしょう。
しかし、その単純さと変わらないもののなかに、偉大な「カッコよさ」が秘められているのです。
たかが鉛筆、たかがボールペン。
されど、その形状が流行に左右されず、デザインも変わらないまま数十年もの時間にも洗われ、のべ数十億、数百億人もの評価に裏付けられて、生き残ってきたという事実を見逃してはなりません。
by CASA SCHWANCK
単純なものとエネルギー
家のデザイン、設備のデザインにも同じことがいえます。
ほんの10年前にはカッコよかったはずの家や設備のデザインが、いまはもう、振り向きたくもないほど古びて見えるのはなぜでしょう。
反対に、百年もしくはそれ以上も前に建てられた建築物が、古さを感じるどころか、その品格と美しい佇まいに、ほれぼれとしてしまうのではなぜなのか。
「単純なものこそ、変わらないもの、偉大なるものの謎を秘している」
こう述べたのは哲学者のマルチン・ハイデッガーでした。
彼の言葉は身近な家や設備、鉛筆やボールペンにまであてはめることができそうです。
文豪ヘミングウェーは、文章の推敲時、加筆することはほとんどなく、むしろ文章を削除する作業を徹底しました。
指定された文字数をオーバーすることはなく、むしろ無駄を削る作業に力を注ぎ、要点を浮き彫りにすることに努めたのです。
言い換えれば、家のデザイン、間取りなど、迷ったときこそ、いったん「単純であること」「無駄を削ぐこと」に立ち戻って考えるところに、大きなヒントが隠されているといえそうです。
簡潔・省略・余韻のこと
向田邦子のエッセイ「無口な手紙」に、こんな文章があります。
手紙の書き方について書かれた文章です。
「月並みなことだが、
簡潔 省略 余韻 この三つに、いま、
その人でなければ書けない情景か言葉がひとつはほしい。
(略)いい手紙は、特にハガキは、
字余りの俳句に似ている。
行間から、情景が匂い、声が聞こえてくる」
手紙に限らず、文章を書くとき(紙媒体のとき)、写真、編集、どんなときにでも大切にしてきた言葉です。
簡潔 省略
は手を抜いたり、工程を省くことではありません。
むしろ、1文字を扱うにしても決してないがしろにせず、敬愛の気持ちを抱き続けて綴ること。
そうして初めて、
余韻
が醸されてくる、という意味に解釈できます。
家を建てること(家を買うという言葉には強い違和感を覚えます)、インテリアを考えること、家事をすること。
それらをシンプルにするためには、実は、身体を動かし、知識を使い、知恵を絞り出し、ユーモアまでも駆使するという、過酷な作業が待ち構えています。
建築家や工務店、インテリアの専門家から提供された「シンプルさありき」のシンプルさなのではありません。
そこで生活する人が自ら、あれこれ揺れながら引き算・足し算を繰り返し、あーでもない、こーでもないと、ありとあらゆる面倒な作業を引き受け、取り組んできた、すでに見えなくなったプロセス=時間=の中にこそ「シンプルさ」はそっと存在するのです。
昔、鬼のようなデスクから、原稿を出すたびに
「書きたいことを書かずに、伝えたいことを書け」「行と行の間の白地から言葉が見えるように書け」
と叱られました。
シンプルさの具現は、いつも私たちを苦しめます。
膨大な時間と作業の積み重ねでしか、ほんとうの【Simple】を具現することはできません。
いまでも、仕事で迷ったときに思い出すのは、向田さんの文章と、懐かしい鬼デスクの言葉です。
膨大な時間と作業の積み重ね、試行錯誤を経て得た強靭な意志でしか【Simple】を具現することはできません。