Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【建築と間(ま)】=日本の家と家族の間に立ち塞がる、もう一つの結界。

 

  

 

 

 

 

 

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スケジュールが埋まっていないと不安でしかたがない日々。日々の暮らしはモノに囲まれ、隙間や余白が罪であるかような家やインテリアが主流です。私たち日本人は、何もない「間」に宇宙を感じ、沈黙に言葉を聴き、「余白」に映像を観る文化を育んできました。私にはとてもできないことですが、ミニマリストと呼ばれる人たちに代表されるように、一部の人たちがこうした問題に気付き、原点に戻り始めています。何もないことの、豊穣。

 

Contents.

 

手書きの原稿にあってないもの

まだワープロもパソコンもない時代、私たちの仕事では13字×10行という専用の原稿用紙で原稿を書いていました。

縦長です。

 

なぜ10行かといえば、何行か書いて間違ったらすぐに、ジャッと破いて捨てられるから。

400字詰めの原稿用紙ですと、5、6行書いて捨てるにはもったいないわけです。

 

私たちが育った時代の記者たちの書くスピードはものすごく速く、消しゴムなどは使いません。

間違ったら、その部分にさっと消し線を入れて訂正し、それを何度か繰り返し、原稿用紙が線や訂正文字でぐちゃぐちゃになったら、ジャッと破り捨て、すぐに書き直すのです。

 

加筆訂正は、行と行の間の余白に入れます。

 

下書きをすることもなく、いきなりの本番勝負。

少しでも速く、正確な文章を書くことを要求されますので、きれいな字で書くなどは、はなから頭にはありません。

 

文字を早く書くこと、他の人が書いたどんなへたくそな文字でも前後のつながりから判読できること、そんなことだけが特技になっていきます。

 

フリーとなり、最初に出版社から仕事をもらって雑文を書き、それを届けた日のことでした。

 

市販の原稿用紙に書いたのですが、いくらなんでも、消し線や訂正だらけの原稿を出すわけにはいかないと清書し、担当者に持っていきました。

 

担当の人は私の原稿を見た途端、顔が真っ赤になって、次の瞬間、「清書くらいして持ってこいよ」と大声で、私を怒鳴りつけたのでした。

 

原稿用紙をそのまま印刷するわけではなく、いったん写植(当時)で打ち直し印刷工程に入るのだから、まあいいじゃないかとそんな程度に思っていたのです。

 

わずかではありますが、まだ活版も残っている時代でした。

 

ご本人は、写植のオペレータだって私の書いた文字は読めそうもないと判断したのでしょう。

 

一生懸命、丁寧に書いた文字が、それも時間をかけて清書をした文字が、プロのオペレータにも判読できない。

これまでに、こんなことは一度もありませんでしたが、会社の人たちに甘えていたのだと思います。

 

このことはかなりショックな出来事で、私は家に帰ってすぐにOA機器の会社に電話をし、いちばん安いワープロを購入することにしました。

いちばん安い、といっても、当時は1台80万円もしたのでした。

 

ワープロは便利な機械で、訂正や削除の痕跡は何も残りませんし、プリントすればそのまま活字となります。

どーだ、ざまあ見ろという気分です。

これで読めないとはいわせない、そんな気持ちでした。

 

しかし、ある日、文章全体から「何か」が足りないことに気づいたのです。

 

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行間の意・行間を読むこととは

この「何か」はいまもよく説明できないのですが、書いている最中も、書き上がった原稿も、確かに「何か」が違うのです。

 

文章を書くときに

「行間の意」

]という言葉があります。

 

文字だけで読ませるのではなく、本来空白であるはずの行と行の間からも、匂いや色や風景、記憶のようなものが滲み出るような文章がいい文章という、一つのセオリーです。

 

「行間を読む」

という言葉もあります。

 

英語でいうと「Read between the lines」。

「人の感情を察する」という意味もあります。

 

ワープロで書き上げた原稿、プリントした原稿にも、そうしたことが感じられないのでした。

 

それから何年か経って、今度はパソコンです。

文字書き専用機ではなく、ネットもメールも写真の現像も何だってできる便利な機械なのですが。

 

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何でもできて何もできない技術

ワープロソフトを使えば、どんな人でも、さくさく原稿を書いて、あるレベルの校正までしてくれます。

デザイン機能もあって、簡単なチラシもできます。

 

ところが、何でもできるはずのこのパソコンが、文字だけを書くときには、使いづらくてしょうがありません。

 

何だってできる代わりに、文字だけを集中して書くには、何かが足りないのです。

できあがった原稿も、プリントした原稿も、何かが足りない。

 

どんなに行間、字間、上下の余白を変えても、縦組み、横組みにしてみても、圧倒的に何かが足りない。

 

このもの足りなさって、機能の過剰からくるものなのでしょうか。

ソフトを開いた途端、その背景に、これもできます、あれもできます、だから使わにゃソンソンと主張してくるようです。

機能があり過ぎて、戸惑う、迷うで、どれだけの時間を無駄にしていることか。

 

文字の変換率は、以前のワープロに比較できないほどよくありません。

でも、簡単に加筆訂正ができます。

原稿用紙をジャッと破る必要もありません。

 

鉛筆やペンが紙の上を走る音や感触、紙と皮膚が擦れ合う感じ、行と行の間にメモする赤字の鮮烈さ。

紙やインクや鉛筆や消しゴムや辞書を開いたときの、あの香り。

 

なんでもできるのですが、それらがみんな、ないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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余白にも美しさが醸される理由

どんなに汚い字でも、鉛筆を持って原稿用紙に向かうだけでそこに「気」のようなものが生まれます。

言い換えれば、その「気」がないと、なんにも気合が入りません。

 

手書きの文字には、書いた人の顔も気持ちも見えてきます。

 

私たちは想像しながら、音楽を聴き、絵画を映画を観て、文章を読むのです。

 

自分の書く文章に、自身が包まれていくような感覚。

寡黙にただそこに在って、手によって新しい世界が刻まれるのを待っている紙が愛おしくてしょうがない。

 

紙に書くと、そんな気持ちになります。

何年経っても、この違和感は変わってはいないことに驚きます。

 

書家の武田双雲さんは、ブログのなかでこんなことを書いています。

 

書道は、余白が大事。

黒で書かれる部分と同じだけ、書かない白の部分は、大事。

つまり、書道家は、白を書いてるとも言える。

美しい書。

人の心を動かすような書は、やはり白部分が美しい。

 

 

文字は墨で黒ですが、余白がないと文字にならないというパラドクスともいえます。

 

同じことが、人と人との会話にもいえそうです。

それまで相手とお話ししていたのですが、急に、双方が、沈黙してしまうときがあります。

 

私たちは「聴く」のが仕事ですので、こうしたときは、沈黙を埋めようとせず、相手が話し出すまで待つことにしています。

 

両者の間に重苦しい空気が漂うこともありますが、沈黙も「音のない言葉」。

いわば余白といえます。

 

そこにどんなメッセージが含まれているかを観察するのです。

 

沈黙の意味、安心感から来ているのか、怒りや不満から来ている可能性もあります。

それでも、数分の間は、じっと沈黙のなかにいます。

 

堪えて堪えて、そこで出てきた言葉は、高い確率で相手の本音を含んだメッセージであることが少なくありません。

 

互いの間にある余白を無理に埋めようとするのはなく、余白をとることで、文字に温度がかもされ、行と行の間に、風景が立ち上がってきます。

 

相手との距離も少し縮まる感じがします。

 

パソコンで書き上げる原稿には、どんなことをしても、それらがありません。

紙に書く原稿には余白や沈黙が感じられるのは、鉛筆やペンで紙に刻むようにして書き込むアナログ動作が、余白や隙間だらけだからでしょうか。

 

紙を選び、ペンを選ぶ。

 

このことだけで、お店に行き、あるいは通販で取り寄せ、紙を開き、ペンを握り、深呼吸してマスを埋める。

無駄といえばそれまでですが、みんな「余白」のなかにこそ、たのしみがあることがわかります。

 

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聴くことは能動的な行為である

私たちは、聴かれてもいませんし、聴いてもいないのです。

人と人との「間」がありません。

そう、「人間」になっていない、ともいえそうです。

 

聴いてもいない、聴かれてもいないでは、会話は成立しない。

なのに、多くの人が会話をしているつもりになっています。

 

 

沈黙にも、言葉があります。

聴く行為は受動行為ではなく、相当な能動的行為であることにお気づきでしょう。

 

取材の現場では、あらかじめ用意してきた質問、その時々に頭に浮かんだ質問を相手に投げかける以外は、自分の意見を話すことはありません。

 

意見が違っていても、討論に来ているわけではないのでそのまま素直にメモするだけです。

 

「うっそー」「わかるわかる」なんてことも言葉にしません。

「はあ」とか「ふん」とか「へえ」とか「ほう」とかいうだけで、ひたすら聴き続けます。

 

私はこれを「ひ抜きのはひふへほ」と名付けています。

は行の「ひ」を抜いて、はあ、ふん、へえ、ほお…の相槌だけで、相手の話を聴いていくからです。

 

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狭い空間に宇宙を見出す日本人

家づくりも同じ。

間取りや設備に、隙間なく、自分たちの要望を詰め込むことで「余白」がなくなります。

沈黙、余白のない家ほど、つまらない家はありません。

 

50歳で出家を果たした鴨長明が、京の都からキロほど離れた日野に建てた草庵は、四畳半(方丈 1丈 =約3m 四方)の広さ、高さ七尺(一尺=約30㎝)に満たない狭く粗末なものでした。

 

定住を前提としない仮の住まいでしたが、長明はここで『方丈記』を書き始めます。

 

東に出した庇の下では薪を焚き、西には仏花を供える棚、南は簀子(すのこ)を敷いた縁側、北側には仏画を飾って、画の前には経典を備えるなど仕様は書院造りの床の間とほぼ同じ。

 

東側を寝床とし、つり棚には、和歌の本。

その横に、琴と琵琶を立てかけ、文机や硯箱などの文具と三具足(みつぐそく)を備えるなど、方丈の間は文化人としてのエッセンスが詰まった小宇宙であり、その狭い空間にさえ「余白」を生み出し、究極のミニマリストの生活がそこにあったことがうかがえます。

 

日本人は余白を「間」として捉えてきました。

茶の間、居間、床の間、土間。

あらゆるところに「間」を見出し、人との人の「間」をとって「人間」としてきたのです。

 

人の思いと所作で「余白」は豊穣と化します。

この「間」のゆたかさを理解できない人のことを、「間抜け」といいます。

 

 

 

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In summary

居間、仏間、茶の間、床の間、間取りといった建築用語から

間違いや合間、手間、時間、空間まで

日本は言葉としても「間」を多く使います。

そして、いちばんやっかいな「間」が人間なのかもしれません。