Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【縁側】=外でも内でもない、日本的過ぎる「曖昧空間」。

 

 

 

 

 

 

 

 

CASA SCHWANCK HOME

誰かとつながりたい。社会とともに歩む。環境を大事に。けれど、誰ともつながりたくないことを体現した家のつくりがいま、主流です。ここ数十年で生まれた日本人特有のプライバシーの概念が、社会と家族、家の機能までも大きく変革しようとしています。

 

Contents.

 

「うち」の反対側にいる他者

あの人はいい「家」の育ちです、という表現はあります。

でも、あの人はいい「うち」の育ちです、とはあまりいいません。

 

「うち」のカミさん、とはいいますが「家」のカミさんとも、あまりいわないようです。

 

家を建てる、うちを建てる。

 

どちらも使いますが、どちらかというと「家」が多い。

 

「家」とは建物そのものを表すこともあれば、家柄や家庭のことを指す場合もあって領域が広いのです。

 

一方「うち」という表現は、自分の縄張りを指すことが多くなります。

「うちには犬がいます」と「家には犬がいます」ではニュアンスがまったく異なります。

 

「うちの商品」「うちの会社」などと表現されることもあります。

 会社も「うち」と表現されるのは日本らしいところ。

 

「うち」の反対側には、常に他者が存在します。

家=うち=ではなく、内=うち=的な意味合いが強くなるのでしょう。

 

 

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家に帰る・うちに帰るの違い

「うち」という言葉には、温度や匂い、音、情景があります。

家族の体温、料理や洗濯の風景、それらの生活音、泣いたり笑ったりの家族の表情なども浮かんできます。

 

不思議なもので、それらは「家」という言葉からはあまり連想されません。

「家に帰る」と「うちに帰る」は同じようで、どこかニュアンスの違う意味になってくるのです。

 

古くは「家」は「屋」。

母屋、屋根、納屋などの言葉はそこから来ています。

 

かといって、厨(くりや)、厩(うまや)、厠(かわや)などは母屋と一線が画され、場所も区別されていたところが面白いところ。

 

「屋」の戸口が「屋戸」。

これが「宿」の原形であり、家の戸口に泊めることが、この言葉の由来になっています。

 

ちなみに「窓」は「目門(まど)」、「障子」は部屋の仕切りを指す襖や衝立のことで、古くは「さうじ」といわれていました。

 

言葉から家や暮らしの原形が見えてきそうです。

 

私たちは知らず知らずのうちに「家」や「うち」を使い分け、「今度、『うちのカミさん』と行く宿(屋戸)は、窓(目門)から海の見えるところがいいね」などと話しているわけです。

 

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「徒然草」にみる賤しげな家

賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。

持仏堂に仏の多き。

前栽に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。

人にあひて詞の多き。

願文に作善多く書き載せたる。

多くて見苦しからぬは、文車の文。塵塚の塵。 「徒然草 第七十二段」

 

 

以前もここでご紹介したかもしれません。

「徒然草」の中の一文です。

 

道具が多いのも、硯に筆が多いのや仏堂に仏像が多いこと、庭に石や植木が多い、家の中には家族が多い、人にあったらやたらと言葉が多いのと同じことで、醜くく見えますよ。

仏への願文に自分の善行をやたらと多く書いてあるのも同じで、文車の本と、ごみためのごみも、多いと見苦しいものです、

というような意味です。

 

大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。 「徒然草 第十段」

 

その人の家を見れば、住人の人となりは、おおよそ見当がつく、の意味でしょうか。

何百年も前の先人たちが、すでにモノを多く持つな、と述べています。

家を見れば、その人間がわかるとすら言い切る洞察に、いまも学ぶことは少なくないようです。

 

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環境との分断は家族との分断

ドラマなどで縁側のある家を見ると、羨ましくなります。

懐かしい気持ちにもなります。

 

縁側は、その家の居間の延長でありながら、何分の1かは公共の場としても機能します。

 

お母さんが洗濯物をたたむところ。

お父さんが新聞を広げて、爪を切るところ。

お隣さんや垣根の向こうの通りから声がかかって、お知り合いと一緒に腰掛け、世間話をするところ。

 

こんなことの積み重ねで、地域とつながり、互いに信頼を育んできた日本人と日本の家の原型が見えてきそうです。

自然とも、他者とも、頑ななまでに分断した家を旨としてきた西洋とは、DNAが全く異なります。

 

日本の土間にも似たような機能があります。

外でも内でもない、緩衝地帯。

曖昧さをむしろ大切にしてきた日本人の特性が表われた場所ともいえます。

 

しかし、近年では、家の機能も合理化・簡略化・機能化が進み、お隣さんや地域の人たちと、むしろつながりを持てない家のつくりが増えてきました。

 

家庭も環境であり、社会の一つ。

にもかかわらず、声高に叫ばれる環境保護やエコロジー、社会とのつながり。

 

自然とのふれあいを求めて、Co2をまき散らしながら遠くのキャンプ場まで出掛け、ほかのどの家族ともふれあうことなく、家族だけのプライベートな時間を過ごす。

 

家族とともに家にいながら、SNSで他者とつながるために自室にこもる。

そんな矛盾の中に、私たちはいます。

 

家族のためにできることを考えることは、隣人を思いや、環境や社会のためにできることを考えることでもあります。

 

 

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In summary.
西洋の「私」は、
他者とは明確に区別された、固定的なものとして捉えられる。
日本人にとっての「私」は、
自他が浸透し合った流動的なものではないか(河合隼雄)。