初めて訪れた場所なのに、いつか来たことのある、見たことのあるような感覚。初めて会ったのに、ずっと昔に会ったことのある、そんな感覚をデジャ・ヴュといいます。日本語では「既視感」と訳されますが、訳語の「視」は、いずれも視覚を意味するものの聴覚、触覚など視覚以外の体験要素もこれに含まれます。この感覚は特殊な人だけの能力、感覚ではなく、誰にでもあるといいます。
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懐かしいデジャ・ビュ
出張で訪れた瀬戸内の小さな町。「ここは、いつか来たことがある」という気持ちになります。
一緒だった人に「初めての気がしません」とお話したら「一昨年もここにお連れしました」と笑われました。
この言葉は慎重に使うべきかもしれません。
初めて会うのに「以前、どこかでお会いしましたか」と尋ねてしまうことが多々あって、だいたいは「初めてです」といわれます。
家の場合も、初めてなのにどこか懐かしい感覚を覚え、ずっと昔にここを訪れているに違いないと思うことがあります。
このときはきっと、デジャ・ヴュなのでしょう。
ふだんは自分で意識しない部分の深いところから、突然甦ってくる感覚。どこか懐かしく、暖かい気持ち。
この感覚を大事にしています。
いつ、どこで、見た、会ったかはどうでもいいことで、自分の深いところに元からあった感覚と、目の前の人、家、風景が同調し気持ちが和むことは悪いことではありません。
計画、計算、分析もできないところで、出会うべきして出会った人、家、風景です。最初から出会うべきしてそこに在ったもの、と言い換えることもできます。
家づくりの際には、1坪、2坪の予算を削ってでも、性能や素材は譲らないようにとアドバイスします。
プランニングの前後には、できるだけ多くの家を見学することをおすすめします。それが叶わなかったら、できるだけたくさんの雑誌や資料を見るようにします。
ああ、いいなあ。
素敵だなあ、と思うだけでは、まだ自分の深いところと同調しているとはいえません。
デジャ・ヴュに近い感覚を覚えるような家、空間に出会うまで、たくさんの出会いを求めていくと、必ず、機会が向こうからやって来ます。
ジャメ・ヴュも全身で
自分の記憶を辿ってみましょう。
自分が懐かしいと思える空間、色、かたち、場所、設備、温度…などを自分の内奥に聴いてみるのです。
それらを逐一メモをしておき、感覚的なものでもかまいませんのでプロに話してみます。
それを受け止め、具現できるか否かで設計の力量が問われます。
人の内奥にあるものに呼応することのない、ただ新しく、おしゃれで、斬新なデザインなどは、すぐに飽きてしまうのです。
先日、取材でおじゃました家で
「この家は、以前にもおじゃました家のような気がします」
と話しましたら、設計の方が
「昔からここに在ったような、懐かしい感じのする家にしたかったのです。何よりの誉め言葉です」
と話してくれました。
もちろん新築で、何もかもが新しいのですが、奇抜なところが少しもなく、何年も前からその土地にあって、何世代かの人が住んできたような穏やかな空気が満ちているように感じたのです。
少し遅れてお会いした施主にお会いして、なるほどと納得しました。
工務店のスタッフをはじめ、電気屋さんや水道屋さんなど、家づくりに関わる全ての人たちに、毎日毎日、笑顔で感謝の言葉を述べてきたそうです。
感謝の気持ちのエネルギーが充満し、交感され、蓄積されて、私は心地よさを感じたのかもしれません。
デジャ・ヴュとは逆に、見慣れたはずのものがまるで未知のもののように感じられることを「ジャメ・ヴュ」=「未視感」といいます。
この感覚も面白いもので、毎日過ごしている日常空間のなかで、ジャメ・ヴュを感じ得る工夫というのもあっていいかと思います。
家づくりに限らず、日常のあらゆる場面で迷ったとき、私たちは自分の中にすでに判断に応用できる物差しを持っています。
大人になってからは【意味】と【解答】ばかり求めてきた気がします。
感じること、のなかに、進むべき道筋へのヒントが隠れていることは少なくありません。
【デジャ・ヴュ】とまではいかなくとも、どこか懐かしく、暖かい気持ちに包まれるかどうかを身体や気持ちに聴いてみる。
ビルダーの担当者、図面、素材、展示場などで実践すると、共通する何かが把握できることが少なくないようです。