Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【照明・灯り】=闇を制御する光のしわざ。

 

今年も、あの3.11がやってきて、また過ぎていった。

震災の直後から、節電のためにと居間の蛍光灯は使わなくなった。

その代わりにスタンドライトを2本購入し、間接照明としてきた。

 

スタンドといっても高価なものでない。

お値段以上のニタリで買った3980円のものである。

電球は昼光色のLED。

以前は40ワットの蛍光灯3本だったので、

電気代は数分の1で済む。

 

一つは壁を、もう一つは天井を照らす。

影も色も消してしまう以前の白い空間から、

きれいな朱色の空間に変わり、

時間の尾っぽに重しがついたように、

時がゆっくりと過ぎていくのがわかる。

 

家族との会話の声も静かになり、たまにつけるテレビの音量も、

以前の半分ほどでよく聞こえる。

夜の底から沸々と湧き出る唸りを感じ、

空間の隅っこに、

何かが隠れているような気配。

そんな時間が気に入って、夜更かしが多くなった。

 

 

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そういえば、子どもの頃に過ごした

鉄道官舎の6帖一間の「家」の灯りも、天井から吊るされた

電球一つだけだった。

その灯りの下で父は新聞をひろげてちびちび酒を飲み

母は隅の方で縫い物をしていた。

 

妹はどこにいても、

いるのかいないのかわからぬほど静かだった。

私はというとはいつも、

ばあちゃんに買ってもらったおもちゃの刀を振り回し

狭い部屋のなかをぐるぐる走ってばかりいた。

それをやめるのは、洋裁をしていた母が

私をギッと睨みつけ

大きな裁ち鋏を振り上げるときだけで

(その鋏では実際何度も叩かれコブをつくった)、

言葉などなくても、家族は一つにつながっていた気がする。

 

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ある人が「誤解を恐れずに話せば」との前提で

「3.11のあの夜が懐かしい」という話を

聞かせてくれたことがあった。

 

電気もガスも水道も止まったなかで、

家族が寄り添い、ロウソクの灯りに一人ひとりの顔が

浮き上がったとき

「初めて、家族と濃密な一体感を得た」というのであった。

それは「闇ではなく、わずかな光のしわざに違いない」

との考察には感心させられた。

 

 

場所というのは、

それぞれ固有の時間を呼吸しているが

灯りや影は、その時間をいかようにでも演出する。

 

橙色のライト二つで

こんなことがわかってきたのだから

本物の「炎」の灯りだったら、どんなにか素敵だろう。

今度は、キャンドルのスタンドを購入しようと考えている。

 

 

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