紙や布1枚、あるいは縄1本で世界を隔てる「結界」。この感覚は、おそらくは日本人ならではのもの。俗と聖を分離するのみならず、建築の世界、私たちの日常でも、当たり前のように応用されていることに気づきます。
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紙や布1枚で世界を隔離する
結界。
主に、神聖な場と俗世界を区切る意味として使われます。
寺社では山門や鳥居などを結界としており、一般社会と清浄な場とを分ける例としては、高野山や比叡山がそれにあたります。
そうした聖地では「国土結界」などといわれます。
神社のしめ縄などは、ただの縄なのですが、なぜかあちらのエリアに畏れを抱く気持ちになります。
鳥居の下はすかすかなのに、そこをくぐると別世界に入り込むような神聖な気持ちになります。
こうしたエリア分け、世界を隔てる感覚は外国人にはわかりにくいかもしれません。
時代劇で、お殿様が高いところに座り、家来や客人は下座でひれ伏している場面を観ることがあります。
お殿様と家来の間に遮るものはないのですが、わずかな段差と厳しい主従関係が「結界」といえます。
場面をよく観ると、偉い人は畳や敷物の上に座っており、家来は板の間に正座していることもあります。
この場合は、「素材」すら結界となっています。
一般の家でも結界は大切にされてきました。
神棚のしめ縄などもそうです。
向こう側は神様の領域であることはみんな知っています。
襖や衝立、障子、縁側なども広義の結界で、暖簾、店先の塩盛り、帳場にある衝立(帳場格子)などは町なかにある結界です。
日本の建具はドアのような遮音性を期待せず、人や音、光や陰の気配を重視した。これも結界の応用。
異なる世界への怖れと敬意と
暖簾はただの薄っぺらな布であり、衝立や屏風も少し押すだけで倒れるような弱弱しい存在です。
しかし、暖簾を下げておくだけで、道路端と店とは明確に仕切られ「OPEN」を意味し、しまうことで営業時間外であることが示されます。
「そこからは気安く入ってくるな」
という強いメッセージとしても機能し、暖簾1枚で私たち日本人は向こう側に別の世界を意識していることがわかります。
障子は視線を遮りますが、光や影や音を透過させる曖昧な建具です。
これも結界の仕掛けの一つ。
しかし、わずか紙1枚ですが、それで心理的な障壁をつくり、自然のゆらぎを感じさせる繊細な機能を有します。
日本の建築に障子が登場するのは平安時代の末期から。
最初は襖も障子と呼ばれていましたが、やがては襖と区別するために明障子と呼ばれ、明障子を単に障子と呼んで襖と区別するようになりました。
谷崎潤一郎の「陰影礼賛」に、障子にふれた一文があります。
ほの白い紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ混迷の世界を現じつつあるからである。
(中略)
時間の経過が分からなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出てきたときは、白髪の老人になりはせぬかというような、『悠久』に対する一種の怖を抱いたことがないであろうか。
ガラスを通して、外の世界をはっきりと認識することも大切なことですが、ほの白い、ほの暗いだけの光や陰に曖昧さや揺らぎを感じ、そこに美意識を持つことのできる日本人の感性が感じられます。
茶道の世界にもきびしい結界があります。
関守石は茶庭や露地の飛び石の上に置かれ、縄で十文字に結んである石。
こちらの道には入ってはならないというサインです。
茶道具の「炉屏」は客畳と道具畳の境界ですし、正座をしてお辞儀をする際、臥した頭に先に置く扇子も相手との結界といえましょう。
神さまの領域と人間が住む俗界を隔て区画する鳥居もまた「結界」。仕切りは一切ないにもかかわらず、くぐるだけで異界に移動する「門」でもある。
大空間でも応用できる文化性
こうして考えていくと、かつての日本家屋には当たり前のように設けられていた土間、門、敷居、上がり框なども、俗世界と我が家を隔てる結界といえます。
門から玄関、玄関から上がり框、和室、床の間と移動する際に存在する、たくさんの段差も同様に、結界を意味していました。
日本の家は、段差を上がるごとに位の高いところに移動し、最後は床の間であり神棚に行き着くのです。
どんなに洋風化した家でも、家のなかで靴を履いたまま生活する日本人はあまりいません。
椅子に座り、ダイニングテーブルで食事をしても、高価なソファーがそこにあっても、私たちはソファーを背もたれにして床座をし、畳の上に座る、寝そべる快感を知っています。
キッチンとダイニングとの境目に暖簾1枚下がっていれば、そこでエリアが分かれることを認識し、家人が衝立の向こうにいれば、そこに安易に立ち入ることもありません。
気持ちを察し合う社会の原点
畳の縁や座布団を踏んではならない、といった教えにも礼儀や嗜みを超えた結界意識が見てとれます。
洋風の暮らしでも、私たちはラグやカーペット、マットの狭いエリアにも領域を感じ取り、それを結界として応用して暮らせるのです。
家族の中では「見ざる・言わざる・聞かざる」ことで、相手の気持ちを察する。
このことは精神的な「結界」といえはしないでしょうか。
日本の社会では「察する」ことで、他者との独特の距離感をたもってきました。
日本人特有のボーダー感覚です。
もっとも、外国の人たちには曖昧でわかりにくいと評判はよろしくないのですが、こうした文化的な背景を説明することで、今後は、少しずつ理解が進むかもしれません。
大空間をつくり曖昧に仕切る
結界の感覚を住空間にも応用してみます。
可動式の屏風や衝立、襖などですが、格安で目的するエリアを確保できる装置として活用できます。
持ち運びも簡単ですし、不要なときには物置にしまっておいてもいいのです。本当に仕切りたいときは、1日の工事で壁ができます。
それまでの我慢です。
あれこれ楽しみながら、暮らしを工夫するのです。
家族がそれぞれ個室に籠るよりも、大きな空間で結界を応用して暮らす。
最初から仕切るのではなく、曖昧に過ごす楽しみもあります。
家に住むのは、家族。
互いの気配を感じ、互いの距離感を縮め、ときに「見ざる・言わざる・聞かざる」ことで心を動かすこと、家族の絆は、より強いもの、いえ柔軟なものとして培われていくはずです。
プライバシーを間取りや居室として考えるのは最後の手段。
日本人ならではの結界の感覚を理解してから、代替えになるものを探しても遅くありません。
1.身の回りには、どんな結界があるかを検証する。布きれ1枚の暖簾だけでも、空間を区切ることができる日本人ならではの感覚。
2.最初から小間割りの空間をつくらない。はじめは大空間をつくっておき、暖簾や衝立、屏風などでプライバシーが確保できないかを検討する。
3.最初から設けた壁を壊してワンルームにするのは大工事。大空間にあとで壁を設けるのは1日の工事で済む。それまでは「結界」を応用する。