家族をもって、家を建てて、お金を稼いで、気が付いたら、老年。果たして自分の人生は何だったのだろうと振り返る人も少なくありません。多くの情報、お金、人脈を得てもなお不自由で満たされないのはなぜなのかしら。
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中年から老年はあっという間
いつの間にか自分も「中年」…と思っていたのもつかの間、あっという間に「中年」を通り過ぎ「老年」の域に達しつつあります。
小さな文字は一層見えにくくなり、身体の動きも鈍くなって、昨冬は凍結路で転倒し、肋骨を痛めてしまいました。
記憶力にも自信がなくなり、あ、いま、何を探していたっけと、何を忘れていたのかも忘れるようになって、眼鏡をかけながら眼鏡を探すことなどしょっちゅうです。
今日、ネットで注文した本が届いたのですが、同じ本が本棚にあって、がっかりしたところです。
思春期のいちばん大きな問題
若い人はきれいでいいな、時間がたくさんあって羨ましい、と思うことはしょっちゅうです。
が、振り返ると、自分の思春期は楽しくないことばかりだった気がします。
親のいうことを聞き、せっせと学校に通い、自由に使えるお金も時間もいまに比べると、圧倒的に不足していました。
身体や心の変化も大きな時期です。
自分の顔、身体のあちこちにも、自分で制御できない違和感を覚え始めます。
夢中になって本を読みましたが、ネットでどんな情報でも瞬時に収集できる現在と比べると、集められる情報の量は数百数千分の一。
どうして、時間はこんなに遅く進むのだろうと、イライラしてばかりいた気がします。
身体は老いても精神を満たす
すぐに必要な情報を拾えるからといって、いいことばかりではありません。
何でもかんでも、すぐに分かってしまうので、早くから成熟が始まり、中年にさしかかる前にはもう老成してしまう、そんな印象です。
孔子は「三十にして立つ」といい「四十にして惑わず」「五十にして天命を知る」といいました。
60歳では「耳順う(みみしたがう)」といって、周囲にも素直になれるということを述べていますが、意固地な人は果たして、そんな心境になれるのかしらと不安になるばかり。
インドでは古くから人の一生を、学生期、家住期、林住期、遊行期の「四住期」に分類しました。
中年以降は家にいたり、林のなかに入ったりを繰り返し、やがて家や家族から離れ、次の世界=死に入っていく準備期間という考え方をしたのです。
身体は老いていくが、精神的にはやがて完成の領域に近づいていく。
そんな考えなのでしょうが、心だけでも成長を続けていくと捉えれば、救いもあります。
病的なまでに健康を求める人
40歳を過ぎてからタバコを始め、健康食らしいものも摂らず、運動らしいこともほとんどせず、自慢のできる趣味も持たず、健康とは遠くかけ離れた生活を続けてきました。
電車もタクシーも全面禁煙になり始めた頃に禁煙しましたが、いまでもタバコは美味しいと思っています。
喫煙者なんて人間じゃないといった目で見る人の多いことに、いまさならながら気付きました。
しかし、禁煙したいまでも、喫煙者よりも、約束を守らない人、挨拶のできない人、上から目線で人を差別する人たちのほうが、よほど不健康で不健全に思えることもあります。
病的ともいえるほどの健康志向の延長線上には、自分を傷つける人、健康でなくなった人や寝たきりの人、障がいをもった人など、社会的に弱者と呼ばれる立場の人に対して負のレッテルが密かに貼られていく図式が見え隠れします。
こんな状況では安定した林住期、遊行期など、望むべくもありません。
断捨離的な身軽さではなくて
「人間は天使になろうとすると悪魔になる」といったのはパスカルでした。
確かに。
人間、そんなにカッコよく生きられるはずはないのです。
いい人になろうとすればするほど、自分の周囲の人間関係がバランスを崩し始める。
こんなことを経験をされた人も少なくないでしょう。
かといって、社会への批判を繰り返していてもしょうがありません。
他者を批判する前に、小さな罪を数え切れないほど積み重ねてきた自分自身を省みることも必要です。
社会生活も、家庭生活も、こうした小さな反省の瓦礫の上に成立するものなのです。
断捨離が流行っています。
ミニマリストたちの生活も注目を浴びています。
しかし、大切なことはモノの量で計る「身軽さ」ではなく、モノにもお金にも執着しない「己軽さ」です。
この人生で幸福だった、間違いじゃなかったと納得できるように、いま・ここを、精一杯生きる。
インドの哲人のように、人生を清算する精神的断捨離が、これからのテーマです。
五木さんも山折さんも、たくさんのことを教えてくださった人生の師。
文章だけではなく、自らの生き方で「林住期」を体現されています。