世界中がウイルスによる危機に直面したまま。医療の現場は崩壊寸前といわれますが、崩壊の原因はウイルスだけにあるのではありません。以前から改善されず放置されてきた潜在的なリスクに、新たなリスクが上乗せされたリスクの怖さ。
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大浴場での転倒事故
10年前の夏のこと。
出張で泊ったビジネスホテルの最上階にある大浴場で転倒してしまいました。
大浴場といってもさほど大きなものではなく、3、4人浸かれる程度の浴槽に同人数ほどの洗い場があるだけ。
早朝だったせいか、入浴しているのは私一人でした。
お湯に浸かり、身体を洗ってまた湯船に…と移動したところで、ツルリと滑って転んでしまったのです。
身体が宙に浮いて、床に落ちた瞬間、右肩だけで全身を支え、大胸筋を断裂してしまいました。
浴場に入った瞬間から、滑りやすい床の素材だなあと思っていたのですが、直前に入っていた人の石鹸のヌルヌルが、わずかに床に残っていたところで転んでしまったのです。
誰もいませんでしたので、あのとき頭を打って意識でも失っていたらと思うと、ゾッとします。
幸い、鍼灸院で治療する程度のケガで済みましたが、痛みは数年間続き、リスクは常に目の前にあると実感したアクシデントでもありました。
ゼロ・リスクの幻想
かつては「ゼロ・リスク社会」とさえいわれた日本が、あの3.11以降、実は身の回りの何かもが、社会全体の構造までが脆く、リスクだらけだったことを知ることになりました。
リスクが「ゼロ」というのはあり得ないのですが、私のケガのように、いつ、どこで、どんなリスクが潜んでいるのかは、誰もわからないことです。
リスクは「ゼロ」なのではなく、見えていなかっただけのことがわかります。
震災を機に住宅の耐震性が改めて注目され、再生可能エネルギーへの期待は一気に高まりました。
緊急時に生活者を守るはずの避難所が断熱不足で、数十万の人が寒さというバリアに苛まれました。
リスクは災害だけではありません。
例えば、この十数年、家庭内事故による死亡者は、交通事故によるそれを大きく上回っています。
畳やカーペット、マットなどのわずか数ミリの縁、床に散らばったチラシや新聞、スリッパ、などにつまずいての転倒、梯子や安定感の悪い椅子、脚立なども転倒事故の多い道具です。
これら家庭内事故に加え、浴室やトイレ、玄関などでのヒートショックを合わせると、家の中で、年間数万人が亡くなっているのです。
住宅業界、医学・福祉の分野で、家庭内事故やヒートショックにふれられるようになったのは、ここ数年のことではないでしょうか。
それでも日本は世界に誇る長寿国ではないか。
はい、その通りです。平均70代の健康寿命を80代にまで伸ばすことができたら、世界中から尊敬される超・長寿国になるではありませんか。
生命に優劣などない
そして、新型コロナ。
感染によるリスクは、いまもなお、死に直結するリスクでもあります。
しかしながら、冷静に考えると、世界中の救急現場は、これまでと同じく、毎日毎日、家庭内事故や交通事故、脳卒中や心疾患で搬送される患者であふれかえっています。
ベースにある、それらの患者数が減らないまま、新型コロナによる感染者が爆発的に追加されているわけです。
このことが、医療現場を崩壊へと導く重大要因であることを忘れてはなりません。
日本はまた、先進国の中で自殺率の高い国です。
年間2万人前後もの人が自ら命を絶ち、人間が健やかに生きるための社会環境が整備されないまま、死につながるリスクとなってきた側面は否定できません。
新型コロナによって亡くなる数千、数万の人と、家の中の事故や自殺によって亡くなった人を比べ、どちらを優先すべきかと論じることができないからこそ、医療の現場がひっ迫しているのです。
新築住宅内のバリア
以前、「究極のバリアフリー」がうたい文句の新築住宅で、カメラマンが大けがをする事故がありました。
引っ越ししたばかりの家人が敷いた玄関マットに足を置いた瞬間、マットが滑ってしまったのです。
カメラバッグと三脚で両手が塞がったまま、カメラマンは玄関土間に頭を打ちつけてしまいました。
新築のバリアフリー住宅でさえ、生命にかかわるリスクが待ち構えています。
設計上のバリアはクリアされていても、先に述べたマットやスリッパ、床に伸びる電気コードや散らかした新聞紙などまでがバリアとなります。これらは、人間がつくるバリアです。
同じリスクにも、どこからか突然湧き出てくるようなリスクと、日常的に周囲に潜んでいるリスクとがあります。
世界中が莫大な軍事費をかけて開発した新型兵器でさえ、打ち克つことのできない新型コロナ。
新型という名の通り、新しいものには常に、未知なるリスクが内包されています。リスクを改善する技術的な対処が求められるのは当然ですが、同時にリスクが醸す「不安」への心理的な対処も重要課題です。
新型コロナのリスクはまさに、自分のたちの暮らしに潜在するリスクに、急激にプラスαされるかたちで表出されてきたリスクといえます。
いまこそ、どちらが先ではなく、全体を睥睨する視座が必要なのかもしれません。