Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【エンディングデザイン】=終末期の時間は人任せにはしない。

 

 

 

 

 

 

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 誰もが老いて、やがて死を迎えます。その過程に医療ががり、介護があり、それぞれに在宅、施設・病院など最期の「場」があります。終末期、その先に見えてくる「死」をどう捉え、迎え、受け入れていくか。場はどこか。そこには、本人と家族の意志、覚悟が深く関わってきます。「胃ろう」をきっかけに見えてきた生命の閉じ方、死のありよう。

 

Contents. 

 

寝たきりがつくられる

友人のA君のお父さんが入院し、胃ろうをすることになりました。

70代後半ですが、誤嚥性肺炎を繰り返し、もはや口から食べることが危険との判断からです。

 

胃ろうとは、おなかの外側から胃に達する孔を開け、そこに管を通して胃に直接栄養を送る方法です。

 

栄養剤を流し込むためのチューブは点滴に使うのと同じスタンドに吊るし、おなかに自然に流れるようにします。

 

この装置を付けることを、造設といいます。

ロボットに金属部品を取り付けるかのような言葉です。

 

栄養剤を入れるのに要する時間は、1回2〜4時間ほど。

1日に朝・昼・夜の3回行うのが一般的です。

これがいわゆる、ごはんになります。

 

口から食べられれば胃ろうとの併用も可能ですが、認知症も進んでいるお父さんは、時々チュープをはずそうとします。

 

そんなときは、太いベルトでベッドに手足を拘束されたり、車椅子から立ち上がって落ちないように、車椅子に縛り付けられたりすることもあります。

A君は、そのことが見るに堪えない、と話してくれました。

 

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ベルトに拘束された命

現在、日本では口から食べ物をとれないために胃ろうで延命している人が、約26万人いるといわれます(全日本病院協会の推計まとめ 2011)。

 

一般病院17万人、ほかは特養、訪問看護など介護関連に大別されます。

 

認知症が進んでいるとはいえ、ベルトで縛られている状態では、本人も家族も、身体も気持ちも萎えてしまいます。

 

以前、ここで「寝たきり」に相当する外国語はない、と書きました。

 

「寝たきりは『つくられる』ことがわかった」

 

というA君の話は、同じ高齢の親を持つ世代に、重い言葉となって気持ちに沈んできます。

 

5年前に亡くなった義母も、最期に至る3年間、認知症を患いながらの胃ろうでした。

水も飲めず、食べ物も一切口にできなかったあの3年間が、A君の現実と重なって見えてきます。

 

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自然死へのアプローチ

外傷を負った患者や神経疾患で食事が摂取できない患者の場合は、胃ろうが選択肢になることもあります。

 

しかし、高齢だったり、回復の見込みがない、加えて認知症がある局面で人工栄養を選択することは、苦痛を与えるだけとの判断から、欧米ではかなり前からタブーとされてきました。

 

そうした考えが日本の一部でも広がり、胃ろうはよくないから、経鼻胃管で栄養をと要望する患者、家族も増えています。

 

しかし、経鼻胃管もまた、大きな苦痛をもたらすものであることを知る人は多くありません。

 

苦痛やストレスのあまり、経鼻胃管を自分で抜去してしまう患者は多く、認知症などで頻繁に自己抜去してしまう患者は、やはり手足を動かさないようにする方法がとられます。

 

QOL(quality of life)が大きく取り上げられていますが、そうした状態の家族を見る思いは、いかばかりでしょうか。

 

 

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寝たきりが少ない北欧

北欧のある国の病院を取材してきたという先輩から、あちらには寝たきり老人はゼロに等しいという話を聞いたことがあります。

新聞やテレビなどでも、こんな話を見たり聞いたりします。

 

福祉国家は同時に、国民が高い税金を負担しなければ成り立たない国家でもあります。

 

在宅介護が主流になっているのも、24時間、施設で介護するより、自宅に介護士を派遣するほうがコストが安く済む現実があるからです。

 

施設介護にならないように、あるいは病院に入らなくていいように、高齢者が自立した生活を送るサポートが徹底されます。

 

が、訓練を重ねても、口から食事ができなくなった場合は、過酷な介助や栄養補給は行わず、自然な死に向かったサポートに切り替わるのです。

 

人工栄養などで延命を図ることは虐待に等しいこと。

こう認識されるのは、そうした社会的、宗教的な背景があるからでしょうか。

 

多くの患者、高齢者は、寝たきり(ほんとうは「寝かせきり」と表現されるべきだと考えます)になる前に亡くなっているので、「寝たきり老人がいない」と表現されることが多くなるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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介護に医療を望む誤解

大事な人であればあるほど、少しでも長く生きてほしい。

そう願うのは当然のこと。

大切な家族であればなおさらです。

 

日本の介護には、医療的なケアのニュアンスが含まれ、本人だけでなく、家族までも介助+治療の体制をどこかで望んでいるように思えます。

 

治療の先には、延命が見え隠れします。

 

介護施設に入っても、病状が悪化すれば病院への搬送、移転を望む。

在宅緩和ケアを続け、家での看取りを切望していたにもかかわらず、危篤時には救急車を呼んでしまう、といったことが頻繁に起きます。

 

こうした場合は、本人や家族の意思にかかわらず、治療が行われ、延命措置が施されます。

心のどこかで、そのことに安堵している自分がいることに、問題の本質が潜んでいる気がしてなりません。

 

終末期に入ると、過剰な医療行為はせず、自然に枯れるように息を引き取らせる北欧の国々。

安楽死を法律で認める国も増えています。

反面、介護の最中でも、最期の場面までも、医療的なケア、延命を望む日本人。

 

寝たきりにならないように、介護をする側もされる側も努力はするが、最後は潔く諦めて死を受け入れる。

 

北欧ではこうした終末期のありようが定着していますが、はたして、日本人にそれが受容できるでしょうか。

何より、何もかも北欧など「あちら」と比較してよいのか、どこかすっきりしないのです。

 

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家族で死に方を考える

自分の立場で考えると、平均寿命を超えた高齢、がんの終末期など、寿命が見えてきた際は、胃ろうをはじめ、あらゆる延命治療はお断りというのが本音です。

 

家族には胃ろうをしても、自分は拒否するという人は少なくないでしょう。

 

わが家では、家族で何度もそのことを話し合い、家族の誰かがそういう状態になったときには、延命治療より、1日でも長く(できれば在宅で)ふつうの暮らしをするという取り決めをしています。

 

こうした際に、私たちがよく口にしてしまうのが、

「家族に迷惑はかけられない」

という言葉です。

 

私たちは、この言葉も、使わないことに決めています。

 

誰かの世話になること、しかも、家族が家族の世話をすることの、何がいけないのでしょう。

 

この言葉は「迷惑をかけられない健康状態」になった人間は、「生きる資格がない」と自ら宣言し、他者にもそう宣告、勧めているかのように聞こえてきます。

 

誰しも、最後の最後まで自分らしく生きることを望んでいます。

家族なのですから、迷惑はお互いさま。

夫婦などは、誰より一緒の時間を共に過ごしてきた、かけがいのない同士でもあります。

 

本人も生きたい、家族も生きていてほしい。

にもかかわらず「迷惑をかけられない」などといわれたら、悲しい気持ちになってしまいます。

与えることも、与えられることを受け取ることも、布施。

 

家族の終末、死を抱えることは、私たちが生きるうえで避けては通れない学びの一つに思えてならないのです。

 

 

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「あちらの国」はどこ

日本老年医学会では、胃ろうなど人工的な水分・栄養補給について、本人の利益にならないときには、導入しないことや中止も選択肢とするというガイドラインを打ち出しています。

 

事前に家人や医師、日本尊厳死協会に登録しておくという方法もありますが、その立場になってみないと実際、気持ちがどう揺らぐかわかりません。

 

海外を視察してきた人がよくいう「あちらの国では」。

こういう言葉、意見も苦手です。

 

あちらと日本の人口、文化、社会構造、宗教、歴史、死生観、現在の経済状況、住宅の性能・構造まで、何もかもが異なるなかでの比較は、容易になされるべきではないでしょう。

 

そもそも、人口550万人のデンマークと1億3000万人の日本と、福祉、医療体制を同じ土俵で比べること自体が困難です。

 

父性社会と母性社会、個人主義と集団(家族)主義。

社会も文化も大別することは乱暴ですが、大枠で考えても、違いはあります。

 

ここで何度も取り上げる住宅性能についても、全館暖房がスタンダードの国と、寒さや暑さに苦しみながら、在宅介護を選択せざるを得ない日本とでは、あまりに条件が異なります。

 

 

 A君は、お父さんが1日でも長生きしてくれることを、選択しました。

たくさん迷った結果です。

 A君がお父さんを愛する気持ちは、お父さんに伝わっているはずです。

 

生も死も含めて、その人に関心を持ち続けることを、共感、もしくは愛といいます。

 

 

 

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おすすめの本

―未曽有の大災害と原発事故の後、言葉を交わしあうことを強く望んだ染織家と作家。長年の友人である二人が、「一日一日が最後のような日々」の中で、切望し実現した対談と往復書簡。作家である前に人として、石牟礼さんはどれだけの人に寄り添い、生き切ったことでしょう。