Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【家族関係】=「自らに目覚めよ」(親鸞) 「いただいた私」を生きていく。

 

 

 

 

 

 

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人を変えようと思っても自分がつらいだけ。家族に関しても同じことがいえそうです。人との関係改善の最大のコツは、まず、自分が変わること。他者は変えられませんが、自分だったら、いま、ここで、すぐに、変わることができます。気が付くと、家族との関係性もプラスに変化している。なぜ?

 

Contents.

 

 

変わらないなら方法を変えてみる

毎日、口うるさいくらいに言っても、パパは洗濯後の下着を畳まない、息子は何時間でもゲームに夢中、娘は2時間もお風呂から出てこない。

 

何度言っても、何も変わらないのですから、何かを変えるしかありません。

 

パパが下着を畳まないのなら、私もパパの下着を畳まない。

息子が何時間でもゲームをやめないのなら、自分はとっとと早く寝てしまう。娘が長風呂を続けるなら、自分も負けずに数時間の入浴タイムを楽しむ。

 

実験。

それでだめなら、また実験。むなしいですが、やるせないですが、人生、この繰り返しです。

 

これまでずっと同じように文句を言い続けてきてもだめだったのですから、ほかの方法を試すしかありません。

 

実験のコツは、相手にいやがらせをしたり、恨みをぶつけるのではなく、あくまで自分の幸福、楽しみを優先すること。

 

我慢することをやめて、好きなもの好きな時間に食べる。

好きな映画を観にいく。

好きな時間に起きる、寝る。

好きな服を買う。

好きなお店で、仲のいい友人たちとランチをする。

 

家の中でだって、嫌なことはもうしない、好きなこと、自分が喜ぶための時間を大事にする、優先することくらいはできそうです。

 

 

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幸福な人の側では不幸になれない

それじゃあ、家の中が片付かない。

ますます子どもが勉強しなくなる。

 

そんな不安がまた自分を責め立てます。それでも、しばらくは自分を優先してみるのです。ただし、その自分は、幸福な自分でなければなりません。

 

幸福そうにしている人のそばにいて、不幸な人間になることは、実際、難しいものです。

 

不幸な顔、悲しい顔、苦しい顔のところに、うれしいことが起きる確率はとても低いでしょう。

 

その裏付けは?

分かりません。

 

不幸な顔をしている人のそばにいるより、幸福そうなやさしい人のそばにいるほうが安心する、という万国共通の意識が何よりの裏付けではないでしょうか。

 

 

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変えられるのは自分しかいない!

自分が変わると、周囲が変化します。何万回も、どこかで聞いた言葉。

 

配偶者を幸福にしようと思ったら、目線を変えて、自分の幸福を見つける。

子どもの幸福を願うのなら、自分が幸福に思えること、幸福を感じられる時間を探す、考える、そのために行動する。

 

それでも、やるしかない。あきらめない。

 

すぐに離婚、さっさと家出というのでは困りますが、大人なのですから現実とのバランスを考える。あまりに飛躍しすぎても、困りものです。

 

親鸞上人は「歎異抄第五段」の中で、こんなふうに述べています。

 

親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず。

そのゆゑは、一切の有情(うじょう)はみなもうて世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり。

いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。

わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。

ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生(ししょう)のあいだ、

いづれの業苦にしづめとも、神通方便をもつて、まず有縁を度すべきなりと云々。

 

 

【訳】

私《親鸞》は、亡くなった父母への供養のために念仏したことは、いまだかつて一度もない。

その理由(わけ)は、いま現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在だからである。

 

どのような存在であろうとも、やがて仏の位に到ったときには、だれをも救済することができるのである。

 

もし念仏が自分の努力でおこなえる善行であるのならば、念仏を振り向けて父母をたすけることもできよう。

 

しかし、自分の努力でなんでもでき、ひとを愛せると思っている心に絶望して、すみやかに弥陀の本願の広大なる智慧をいただくならば、その智慧のはたらきによって、どのような苦悩多い境遇に埋没している存在であっても救われるのである。(※訳 参照/親鸞仏教センター)

 

 

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自分が幸福になることで人を救う

「有縁を度すべきなり」の有縁の存在は、お世話になった両親ではなく、まずは自分自身という意味です。

 

この世に生を受けた以上、いただいた「私」を生きていくしかないのですから「有縁を度すべきなり」すなわち「自らに目覚めよ」ということ。

 

換言すれば、何よりも自分が幸福になるために生まれ変わらなかったら、父や母はもちろん、周囲の人も救えないことになります。

 

自分が誰よりも幸福になることこそが、自分の生命を生き抜く責任であり、それが本当の意味で「父母の孝養」になるという教えともいえます。

 

もっとカッコのいいご主人、もっと美人の奥さん、もっと頭脳明晰な子ども、もっと素敵で大きな家――と考えていくと際限がありません。

 

何より、自分だって、あの俳優、あの女優さんなんかに比べたら、この顔、このスタイル、と考えると納得。

相手にばかり夢を抱くのはフェアじゃありませんよね。

 

親鸞のいう通り、まさに「一切の有情(うじょう)はみなもうて世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり」=「いま現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在だからである。」なのです。

 

 

 

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In summary
 
 

宗教学者・釈徹宗さんが、やさしい語り口で『歎異抄』の思想を解説。全文に丁寧な現代語訳が施され、気軽に読める一冊になっています。司馬遼太郎は「無人島にたった一冊だけ本を持っていくなら、『歎異抄』」と言ったことは有名な話。苦しいとき、困ったとき、悲しいとき、ぱっと開いて飛び込んでくるその言葉が、そのときのあなたを救ってくれそうです。