Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【縁側とご縁】=向こうからくる「縁」、引き寄せる「縁」。

 

  

 

 

 

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縁側の「縁」、人と人との「縁」。同じ「縁」にも「ふち」や「へり」があり「えん」も「ゆかり」もあります。「縁側」のある家への憧れがありましたが、いい「ご縁」にも憧れます。人のみならず、お金や地位との「ご縁」にもあやかりたいのが、人間の弱さ、そしてエゴ。向こうからやってくる「縁」もあれば、引き寄せる「縁」もあるようです。

 

Contents.

 

縁側のある家に憧れる

子どもの頃から縁側のある家が憧れでした。

しかし、自宅は絵に描いたような住宅地にあり、敷地も60坪ちょっと。

隣家が境界線ぎりぎりにまで迫っています。

 

こんな環境では、庭先に縁台は設けられても、風景を楽しめるような縁側など望むべくもありません。

 

性能にはこだわりましたが、家のかたちは、どこにでもあるような平凡なものになってしまいました。

それが、小さな後悔となっています。

 

生まれ育った家にも、縁側があったわけではないのです。

しかし、日本人のおおよそが縁側に憧れるDNAのようなものを持っているのはなぜでしょう。

 

 

縁側が生まれたのは平安時代にまでさかのぼります。

 

当時は、文字通り、家や座敷の「へり」や「ふち」の部分を指す言葉でした。

その後、「へり」や「ふち」を「側」と呼ぶようになり、「縁」と結びついて縁側が生まれたといわれています。

建具の外側にあるのが外縁(ぬれ縁)で、建具の内側にあるのが内縁。

 

内縁は外縁が室内化したもので、半分は外、半分は家のような空間。

 

廊下のようになっているところもあります。

家にいながら自然を感じていたいという、日本人ならではの感性の表われといってもいいでしょう。

 

伝統的な日本家屋では家への入り方にも二通りあって、一つは玄関や土間などから入る方法、もう一つはいったん庭に回って縁側などから上がる方法です。

 

テレビや映画でよく見る光景は後者のほうです。

農村などでは、いまでも、こうした家が少なくありません。

 

向田邦子の本やテレビドラマのなかにも、必ずといっていいほど、小さな古い家の縁側や土間、上がり框が登場します。

 

家族の関係に亀裂が入ったり、家族が転生していく過程で、縁側が物語の重要な装置になっているのです。

 

濡れ縁には軒がついていることから、家から独立して突き出るウッドデッキとは一線を画します。

 

西洋建築で「テラス」「ポーチ」は1階の側面にあるもの、2階以上の高層階にあるものは「ベランダ」や「バルコニー」と呼ばれます。

 

 

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並ぶから話せることも

敷地に侵入を許された近所のおじさんやおばさんは、縁側に腰掛け、家人と一緒のお茶飲み話をします。

しかし、そこに腰掛けることはできても、家のなかには滅多に入ることはできません。

 

いつか「土間」についてもふれましたが、訪問者を土間に立たせておく、上り框に腰掛けることができても、家の中に入ることはできない。

 

縁側もまた、土間と同じような、駆け引きの機能をもっているのです。

 

家人がお茶を入れに台所に立った間、庭を眺めるふりをして、時折家のなかをのぞき込む。

 

「相変わらず、うちより貧乏そうねえ」

 

とか思ったりするのですが、それ以上は入り込まないのがルール。

ご近所づきあいが長く続くための嗜み。

 

家でも外でもない、緩衝地帯だからこそ可能な場所。

日本人特有のコミュニケーションを具現した建築的部位ともいえます。

 

家族にとっても、この空間は大切な場になり得ます。

 

居間や茶の間では面と向かって話せないことも、縁側に並んで腰かけ、庭を見ながらだったら話ができそうです。

 

この場合、相手の目を見ることなく、互いに同じ庭を見つめながら話すことで、風景が互いの鏡のような存在となり、つい、気を許してしまうのでしょう。

 

ときには、家族個々人のなかに潜在的に存在する危うさを映し出すこともあるだけに、縁側は家族にとって忘れることのできない記憶の場面になることが少なくありません。

 

昨今の家では、敷地そのものが狭いことから、こうした造りもなかなか難しくなっています。

 

でも、濡れ縁ではなく内縁、土間の上がり框、あるいはベランダや縁台なら、一緒に並んでというのも、なんとかできそうです。

 

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「因」と「縁」の違い

昔の人は子供が家のなかで走り回っていると「畳縁を踏んではいけない」としつけたものでした。

 

畳縁(たたみべり)とは文字通り、畳の端の模様のついた布の部分のこと。

畳と畳が合わさる部分にはありませんが、畳の角の摩耗を防ぐ意味もあります。

かつては家紋が模様となっていたこともあり、安易に踏みつけないことがしつけになったと考えられます。

 

【縁】は「へり」だけでなく、「えん」でもあります。

 

「えん」はサンスクリット語の「Pratyaya」で「結果を生じる直接的な原因に対して、間接的な原因。原因を助成して結果を生じさせる条件や事情」などの意味があります。

 

仏教でいう「縁起」のもととなった言葉であり「縁起」は「因縁生起(いんねんしょうき)」の略。

 

「因」は直接的な原因、「縁」は間接的な原因です。

 

ものごとすべては「因」と「縁」で生まれることを表わしますが、同じ原因があるとしも、直接・間接、「因」と「縁」が合わさって、複合的に結果が生じると解釈できそうです。

 

 

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選んだものが目の前に

いま、私たちの目の前にいる人、日常、出来事。

これらの全ては、まさに「因縁」。

自分自身が呼び寄せている可能性も否定できません。

 

自らが、その都度自分で判断し「選択」し続けてきた結果も、縁。

いえいえ、とんでもない。

お金がないから、毎日、こんなに苦しい思いをして働いているのです。

一日でも早く、お金持ちになりたい。

 

こう思っている人は、「お金がない自分」「不平不満の多い自分」でいることを自ら選択しているかもしれません。

 

お金はないけど、家族みんな健康で、幸せ。

こういう思いを選択している人は「幸せ」な自分を呼び寄せ、自らその結果のなかにいるともいえます。

 

お金も足りない、幸福も足りない、周囲にやさしい人が足りない、もっと私にやさしくしてぼしい。

 

こういう思いを選択している人には「私は幸福ではない」「私には足りないものばかり」と思っている人が不思議と集まってきます。

 

何度叱ってもいうことをきかない子供には、ついつい、こんなふうに怒鳴ってしまうことがあります。

 

「なぜ、いい子になれないの」

 

怒りの気持ちをこうした言葉で表わすことは「いい子になれない子」であることを断定すること?

 

「こうして叱るのは、おまえのためなんだから」という言葉は、「自分には価値がない」と思い込んでしまう子供を育ててしまうかもしれません。

 

もっと素敵な彼がほしい。

もっと年収の高い彼がほしい。

私を幸せにしてくれる誰かが、そばにいてほしい。

 

念じれば念じるほど、素敵ではない人、年収の低い人、おまえのことより、俺のことを幸せにしてくれ、と願う人が寄ってくるのは不思議なからくり。

 

「貧しい自分」「幸せでない自分」を世界の誰より自分が認めてしまう。

自分自身が、そうした種類の「縁」を結ぶ、といってもいい過ぎではないようです。

 

 

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