手間がかかる、手間を要する、手間取る――などには、想定した以上に時間や工数がかかるなどの意味があります。もっと短時間で済ませたいのに、ああ面倒くさい、ということ? しかし、簡単にはできないからこそ、奇跡に巡り会えることもありそうです。
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合理的なアメリカ人の食文化
以前、我が家にホームステイしていたアメリカ人のジム君が、ある日、
「1日に3度も火の通った熱い料理を食べるなんて合理的じゃない」
といったことがありました。
料理に合理的とか合理的じゃないとかあるんでしょうかと尋ねましたら、
「そんな時間があるのなら、家族が一緒に過ごせる時間を大事にすべきでしょう」
というのです。
確かに、主婦だけがキッチンに立って調理をし、お父さんと子どもが、テレビを観ながら料理が出てくるのを待つという日本の平均的な家庭像に対して、そんな意見があっても当然かもしれません。
ハワイ島以外のアメリカ合衆国に行ったことがありませんので、あなたの家ではどんな食事をするのかと尋ねますと、だいたい、家族みんなが揃ってテーブルにつくなど映画の世界だけのことで、朝食は出かける順に冷蔵庫を開けてささっと食べて終わり、といいます。
彼の家族の場合は、シリアルかベーグルにミルク。兄弟たちも、ミルクがジュース、ベーグルがパンになる程度のことで、目玉焼きやオムレツなどは、ほとんど作らない。
その分、夕食はできるだけ家族揃って食べるようにしますが、かといって野菜や肉をいちから料理することはあまりなく、冷凍食品でささっと済ませることが多いというのです。
「でもね、ちゃんとお祈りをして、ちゃんと電気を消してね、キャンドルを灯して食べるんだ」
という彼は少し誇らしげに見えました。
大切なのは、料理そのものにかける「手間」よりも、料理を囲む家族との時間なのです。
ドイツは冷たい食事が多い?
ドイツでは、同じような場面を経験したことがあります。
友人宅(戸建てではなく集合住宅=レジデンス)でのことですが、
「そういえば、日本では、3食熱い食事をするというけど本当なのか」
と真顔で聞くのです。
昼はかなりヘビーなものを食べるドイツ人ですが、朝食、夕食はパンにハムやソーセージ、ジャム、野菜、フルーツなどで簡単に済ませます。
熱の通ったものといえばコーヒーくらいで、料理はほとんど「冷食」。
レストランが主体のはずのガストホーフ(民宿のようなところ)での食事も、朝や夕は冷たいメニューしかないところが少なくありません。
先のアメリカ人と同じで、時短料理で余った時間は、家族でゆったり過ごすというのです。
最初のドイツは真冬でしたので、2、3度冷たい夕食をとっただけで欲求不満気味になり、熱々のハンバーグを食べるために何度かマクドナルドに行ったことを思い出します。
当時から外食は苦手でしたが、焼き立て、熱々のハンバーグがこんなにおいしいものかと感動したのを覚えています。
アメリカ、ヨーロッパでは、日本よりも早く大型の冷蔵庫が普及していた理由がこんなところでもわかるのですが、イギリスには冷凍庫が故障したときのための保険=フリーザー・インシュランスがあるほど。
キッチンから、料理からも文化の違いまざまざと見せつけられるのです。
手間ばかりかかった昔の生活
昭和30年代にはまだ、牛乳や豆腐などを毎朝、毎夕配達してくれたり、近くまで売りに来る人がいました。
子どもたちは、買い物かごを持たされ、肉や魚などを、毎日、近所の店まで買いに行かされるのです。
そうして、子どもながらに、新鮮な肉や魚、野菜の選び方を学んでいたように思います。
主婦も子どもも何かと時間や手間がかかった時代でした。
しかし、いまよりずっと、新鮮でおいしいものを食べていたかもしれません。
身の回りの素材はほとんど自然界からできたものばかりでした。
買い物かごは樹皮や蔓を編んだものでしたし、豆腐を買いに行くときは、買い物かごとは別に鍋やボールを持参しました。
おにぎりや納豆などは杉・檜(ひのき)などの木材を紙のように薄く削った経木(きょうぎ)や竹の皮を使いました。
豆腐はおばさあんが自らすっとすくって、さらっと経木で包んで鍋に入れてくれたように思います。
掃除は「あとみよそわか」で
毎朝、食事の前に拭き掃除をします。
アトリエのデスク、床、窓枠。玄関の棚や土間のタイルなど、10分もかからない程度の作業です。
冬はまだ暗いうちから。
寒い日などは、面倒と思うこともありますが、5年以上も続けているので、身体が先に動くようになってきたようです。
最初は家族やスタッフのためと思って始めましたが、次第に「自分のために」と思うようになりました。
毎日拭いているはずなのに、汚れているところが見つかると、子どもたちや、仕事の関係の方々に、
「あのとき、もう少しやさしい言葉をかけてやればよかった」
などと、自分を振り返るきっかけにもなります。
目についた汚れが、自分の気持ちの汚れに見えてくるのです。
子どもの頃、雑巾のしぼり方がへただと、よく母に叱られました。
学校の先生にも同じことをいわれました。
団子にしてしぼる握りしぼりしかできず、縦しぼりを覚えても上手にしぼり切れません。
床を雑巾がけした後は、米から出る最初の濃い目のとぎ汁でツヤ出しをします。
年末の大掃除より、季節の変わり目の掃除を重ねるほうが、家のなかがきれいに保たれていた気がします。
文豪・幸田露伴の娘、幸田文(あや)の「父・こんなこと」にも、家事にまつわる多くの話が出てきます。
掃除を終えると露伴から「あとみよそわか」と声がかかります。
「あとを見よ」の次の「そわか」は梵語(ぼんご)の「薩婆訶(そわか)」で「円満」「成就」などの意味があります。
「掃除」という家事一つにも気持ちを込め、その結果を見極める。
水の性質を知り、五感を使って、しつらえの真意までも学ぶのです。
明治の日本人にとって、
日々の整理整頓、掃除は、
人生を形成する大切な要素だったことが分かります。
住空間を清潔に保つことのみならず、そこで生きる「所作」までもきれいであることを求めたのかもしれません。
しつらえを漢字で書くと【室礼】。
こうした家への礼節を知ることなく、スーパーで買ってきた商品のように家のことを扱う時代になってしまいました。
時代が違うといえばそれまでですが、日本人はこうして家にも人にも向き合ってきたのだな、とどの作品を読んでも新しい発見があるのです。
手間の中には「時間」の価値
母親が台所で料理をする姿を長い時間眺めることで、子どもたちは安心感を抱き、それが思い出になっている人も少なくないでしょう。
記憶に刻まれるのは、光景だけではありません。
料理をつくるときの音、匂い、感触、味など五感の全てに刻まれるのは、その場面で費やされた時間と言い換えてもいいはずです。
日本語の「手間」を英訳すると、「time」になります。
手間をかけることは、すなわち時間をかけることです。
5キロの道のりをクルマで移動すると、たった数分ですが、歩くと1時間ちょっとかかります。
早く着く方が疲れませんし、時間の節約にもなり、合理的に決まっていますが、歩いた人のほうがたくさんの景色を見ることができます。
手間をかけることは「こころ」を使うことでもあります。
心理療法家の河合隼雄さんは「Q&A こころの子育て 誕生から思春期までの48章」(朝日新聞社)の冒頭でこう語っています。
物が豊かになれば人生は楽になるはずだ――日本人はみんな長い間、そう思ってがんばってきたんですね。だけど、そんなことはない、
人生はむしろそれだけ難しくなるんです。どうしてかというと、物が豊かにたった分だけこころを使わないといけないからです。
それなのに豊かになると、どうしても物事を安易に物やお金で解決しようとして、こころを使うことを忘れる。
そこをちょっとサボッてしまう。
だからいま、子育てについても、問題がいっぱい出てきているんです(中略)。
つまり、「こころのエネルギーを節約して便利にしよう。それが進歩や」とみんな思い込みすぎたわけです。
家は建築物ですが、暮らしの営み、気持ちの往還、時間の長さや深さで捉えることで、初めて「うち」になります。
空間の有り様や素材、家族の気配、料理の匂いや音など、私たちの五感は、一瞬の休みもなく、記憶を刻み、それを原風景とします。
忘れられない家の原風景には、必ず、家族の姿があるのは、不思議です。
そこには月並みではあるものの「こころを使う」作業、場面がたくさんあったのではないでしょうか。
アメリカやドイツの友人たちは、料理の時間は削っても、家族とともに濃密な時間をともにします。
調理にかける時間は短いかもしれませんが、月に何度かは家族総出で住まいのメンテナンスをします。
次の住まい手、次代の住人のために、です。
その時間は長短ではなく、深さ。
手間をかけることでしか得られない深さです。
日本語の「手間」を英訳すると「time」。
手間をかけることは、すなわち時間をかけること。
5キロの道のりをクルマで移動すると、たった数分ですが、
歩いた人のほうがたくさんの景色を見ることができます。