過剰な情報をもとに、詰め込めるだけ詰め込まれた機能にあふれた家は、饒舌すぎてつまらない。空間にふれることのできる家、沈黙からゆたかさが聴こえてくる家、身を委ねると静かに微笑んでくれる家。そんな家をつくることができたら、どんなに素敵なことでしょう。
Contents.
五感を澄まして家の声を聴く
家に入ると、空間から感じるものを五感に聴きます。
どこの木で建てられたとか、施主の要望が多くて苦労したんだよとか、どうだいこのニッチ、この和室素敵でしょう…といった、家から発せられる声に五感を澄ませるのです。
今度は、こちらから質問。
「あなたは、どんな家になりたいのですか」
言葉はありません。
家のなかを歩き回ると、次第に家の言葉が見えてきます。
感じること、聴こえることがあります。
家人や担当の方の説明をうかがいますが、なるほどと思うこともあれば、この家、そんなこといっていないよ、と思うこともあります。
by Re:model
佇まいが「きれい」な家とは
静かな家が好きです。
五感をざわつかせない家です。
余白のある家が好きです。
隙間なく、息が詰まるほど、緻密に建てられた家は疲れます。
微笑みのある家が好きです。
空間に漂うがごとく、身を委ねることができます。
匂いのある家が好きです。
その家、家族にしか流れていない時間が匂い立つ家です。
語り過ぎない家が好きです。
過剰な主張がなく、人間の想像力を喚起させる家は清潔な「余白」を感じさせます。
沈黙のある家が好きです。
いま、ここにある時間をより深めてくれるからです。
きれいな家が好きです。
化粧を塗り重ねた美しさではなく、全体から漂ってくる佇まいが澄んでいる家。
緊張を呼び覚ます日本の和室
どんな家でも、和室に足を踏み入れるときは、緊張します。
家族ではない訪問者を安易に受け入れない厳しさが、和室から感じるのはなぜでしょう。
畳の上を歩くときには、自然に動作が緩やかになります。
フローリングの上ではできなかった動作となり、動作が所作となり、微かな音になって響きます。
どんなに狭い和室でも、未知の空間をそこに感じます。
造作が削ぎ落とされた空間であるにもかかわらず、過剰なほどに、自分と対峙する要求を突き付けられるのです。
リビングでは大ぶりの花瓶に、大袈裟なほどに盛られていた花も、和室はそれを受け付けません。
庭にアサガオが咲いたからと秀吉を招いた利休が、秀吉が来る前に庭のアサガオをすべて摘み取り、一輪だけ茶室に生けたという話があります。
床の間という限定された空間では、一輪の花でも宇宙を感じさせるほどの存在感を示すのです。
by Re:model
茶道の三音に学ぶ静寂と沈黙
くつろぎや安らぎのための器であるはずの家が、疲れる場所であっては困ります。
静かで沈黙の似合う場と時間が必要なのです。
テレビなどの機械音の似合わない場。
窓を開ければ、自然の営み、四季の移ろいが感じられる場。
大きな声を必要としない場。
かすかな動作の音も、澄みわたって聴こえてくるような場。
茶の湯では「三音」といって、茶を点てるときの心得があります。
釜の蓋をきる音、茶筅(ちゃせん)通しの音、茶碗に茶杓をあてる音で(異説もありますが)、茶席では、これ以外の音を立てないこと――。
言い換えれば、これらの「三音」だけは、意識して音をたてることを理想としています。
茶室のなかでの音は音ではなく、静寂さと沈黙を際立たせるための道具であるかもしれません。
by Re:model
人の気持ちが起点となる空間
音や言葉を介さないことは、主客の気持ちを一つとし宇宙の営みの一端にふれようとする試み。
このことは、同じ空間でも人間の気持ちを起点に、空間がつくられていくことを教えてくれます。
西洋文化は、強固な骨組みで全体の構造を作り上げます。
日本の文化は、骨組みは弱いものの、曖昧でも細部にわたるこだわりと、無を有に組み換え、宇宙観にまで発展させるスケールがあります。
茶室をつくりましょうというのではありません。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚といった私たちの五感は、情報のカオスで疲れ切っています。
いまほど、五感が研ぎ澄まされるような空間、時間、人との「間合い」が必要な時代はありません。
The Sound of Silence――が聴こえるような家づくりがあっていい、というゆえんです。
by Re:model