かつては紙や木、土だけでできていた日本の家も、いまや化学製品が主流を占め、使われる自然素材は数えるほど。ビニールやプラスチックのように、いつまでも丈夫で頑丈なことはいいことですが、身近に「生命」の息遣いが感じられなくなったことは少しさびしい気がします。
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光と影が自在に躍る建具
遠い昔のこと。
家の庭の花々が一斉に咲き始める季節になると、母と一緒に障子の張り替えをするのが恒例行事でした。
建て付けの悪くなった障子の建具を外して外に持ち出し、張り替えの前の障子紙をグウのパンチでボスッボスッと破っていくのは、このときにだけ、子どもたちに許されることだったのです。
紙に穴が開いたら枠に水をかけてしばらく置いておく。
そのあと、タワシでこすって、古い障子紙と糊を落としていきます。
それが乾いたら、いよいよ障子紙を張ります。
糊は、母がお米の残りを使って作っておいた米糊。
セメダインやボンドを使わないのか不思議でしょうがなかったのですが、母いわく「米糊は何百年でももつ」のだそうで、そんなことあるわけない、と半信半疑だったのを覚えています。
しかし、実際には米糊の接着力はとても強力で、接着力は約300年以上もあることをあとになって知ることになります。
化学接着剤ができるまで、日本では米糊が建築を支えていたのです。
枠に刷毛で米糊を塗り、丁寧に張られた障子紙はあとで霧吹きをします。
その時点で、ふよふよだった紙がピンと張っていくさまは、傍で見ていても、気持ちのいいものでした。
障子紙が乾いた頃にカミソリで四隅の余分な部分を切り落とし、完成。
窓に戻すと、それまでの光とはまた違った清潔な光が発散され、部屋のなかまで清潔になったような感じがしました。
窓は「間戸」が語源。
日本の建築のなかでは、空間をつなぎもするし、仕切りもする装置として機能してきました。
なかでも障子は、閉めていても、光や陰を透過させ、その光は時間の推移によって何通りにも移ろって、陰の時間的な変化までも表現する建具です。
視界を遮ってもなお、光の演出を享受しようとする機能は世界でも類を見ないものともいえます。
「内」でも「外」でもない「間」を表現する「間戸」であり、狭い空間でも、曖昧な光と陰を感じることで自然界、ひいては宇宙の広大さを感じ取る役目を果たしているのかもしれません。
はかなさゆえの魅力とは
100年もつ家がほんとうにできるのかどうか。
議論の余地があるとはいえ、素朴に考えても、20年でダメになる家より100年の寿命があったほうが家計面でも有利ですし、環境への負荷が少ないことは明白です。
しかし、その「100年」が絶対に朽ちない、なくならない家、死なない、ということとは別問題です。
なぜなら、いつかはこの世から消えてしまうことのない生命体など、魅力を感じないからです。
障子も、弱くて、破れやすいからといって、いまは化学製品が多く出回り、なかには断熱性に優れたものもあります。
化学製品ですから穴を開けようとしても開きませんし、耐久性も紙の比ではありません。
年月とともに汚れてはくるのでしょうが、放っておけば、何年だってもちます。
でも、そんな障子が思い出に刻まれていくのだろうかという疑問が残り、一抹のさびしさも。
ビニールクロスはどうでしょう。
耐久性では紙などよりはるかに上をいきます。
少々水がかかっても大丈夫。
木材にも同じようなことがいえます。
無垢の木は割れもしますし、温湿度によって暴れたり狂ったりします。
ボンドで合わせた集成材はそうした心配はありませんが、どちらも、なんだか可愛げがありません。
身近なところでは、花。
いまは、生け花などよりずっと生け花らしい造花があり、百均でも、観葉植物のイミテーションがたくさんあります。
しかし、人間というのは不思議なもので、ニセモノが傍にあるというそのことだけで、五感が休まることがないのです。
空間を曖昧かつ自在に仕切る融通性。陰翳の質は、いっときでも同じことはない。
生命に秘められた美しさ
私たちが美しいと感じるものには、ほとんどの場合、「生命」があります。
自らの心の奥底で、その「生命」が永遠などではなく、いつかは自分の目の前から消えてしまうことを感じ取っているのかもしれません。
本物そっくりの造花を目の前に置いても落ち着かないのは、造花に「生命」がなく、いつか朽ちて、なくなってしまうこともないから、なのではないでしょうか。
「生命」のないものは、この世からいつかは消えてなくなること、死んでしまうことを赦されないのです。
誰だって、いつまでも生きていたい。
死にたくありません。
人間だけでなく、花だって、家だって、障子だって、ほんとうは破れたくないし壊れたくない、自分の存在を消したくなどないのです。
造花や化学製品と「生命」のあるものとの違いは、前者は朽ちないこと=死ぬこと=を赦されない存在であり、後者はいつかは朽ちて消えてしまう、ところにあります。
いつかは消えてしまうからこそ、私たちは無意識にはかなさを感じ、それを美しいと思うのでしょう。
そうした思いだけが、記憶として刻まれていくのです。
そんなふうに俯瞰しながら、周辺を眺めてみます。
赤ちゃんだって、いつかは嗜みも節操もないオジちゃん、オバちゃんみたいになるかもしれないと思うからこそ、いまが最高にかわいく見えるのです。
100年もつ家は望むところですが、1000年もつ家となると、ちょっと微妙かもしれません。
弱いもの、はかないものから生まれる
やさしさや美しさもある。
生命あるものに囲まれていないと
生命が縮こまってしまう気がします。