読書の際、気になった文章は2Bの鉛筆で線を引きます。すごい話だ、上手な表現だなあと思った部分が多いときには、ページの端を折ります。ですから、書棚にある本は全てボロ雑巾みたいになってしまいます。読み終えると、線を引いたり、端を折ったページの文章をノートに書き写します。手書きに徹することで自分の無意識に刻み込める、という思い込みで続けている習慣です。読書は物語を通して、別の世界に通じるツール。そして私たちは日々、物語に助けられながら、生きているのかもしれません。
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絶望の中で物語を編める人
人生で体験できることは限られますが、読書は読んだ本の数だけ物語を疑似的に体験できます。
あのときの出会いはこんな意味があったのかと、自分の記憶を追体験することもあるはずです。
本を読むと賢い人になるというのは、うそです。
自分を振り返ればわかります。
世界には、私の数十倍読書をしても、子どもがたくさん暮らす村と知っていながらミサイルを撃ち込むような人たちがいるのですから。
読書の量と教養は話し合いが不要なほど、比例はしないと思っています。
アウシュビッツを生きのびた精神科医ヴィクトール・フランクルは「夜と霧」の中で、収容所の過酷な環境で囚人たちが何に絶望し、何に希望を見いだしたかを克明に記録しました。
ガス室に入れられても、運命に毅然(ルビ・きぜん)と立ち向かう人。
死を間近に感じざるを得ない日常で音楽を楽しみ、祈り、美しい夕焼けに感動する人。
全てを奪われてもなお「世界はどうしてこんなに美しいのだろう」と物語を創造する自由は、誰にも奪うことはできませんでした。
フランクルは人間に「創造する喜び」が備わっていることに気づきます。
創造とは、現実から別の世界への通路や媒介としての物語の創造でもあるでしょう。
「夜と霧」 新版 (日本語)
ヴィクトール・E・フランクル (著), 池田 香代子 (翻訳) みすず書房
先生はやさしせなあかんで
灰谷健次郎の「子どもへの恋文」(角川文庫)には、灰谷さんが関わってきた子どもたちの詩がたくさん載っています。
=かみさま=
かみさまは
とばれるのですか
あるくのですか
くつはありますか
(とちたに ようこ 5歳)
=ベッド=
かねもちのいえはベッドがある
わたしのいえはしゃきんがある
かねもちの子はわらうとき
おじょうひんに口に手をあてて
ほほほほとわらう
わたしはうがいするみたいに
大きな口をあけて
がらがらがらとわらう
わらいながら
いっぺんほかほかのベッドで
ねてみたいなあと思う
(長谷敬子 8歳)
=けっこん=
先生のおよめさんきれいかおか
やさしいか
よう こえとるか
だんだん こわなるで
あいてがこわなっても
先生はやさしせなあかんで
(高田達夫 8歳)
=はぬけ=
べんきょうのとき
しゃべっとったら
先生が
「おくば、かんどりなさい」といった
「おくば、むしばや」
いうたら
「まえば、かんどりなさい」といった
先生
まえばもぬけて
ないねんで
(池崎晃司 7歳)
「子どもへの恋文 」(角川文庫) 灰谷 健次郎 (著)
生き直す媒体としての物語
子どもたちの中に、最初から物語があったのではありません。
家族や先生など周囲の大人たちが、子どもの中で育まれる物語の存在を信じきって、受け止めるやさしさを持っていたからこそ、子どもは安心して、言葉を放つことができたのです。
紡がれた物語は、知識や情報とはまた別の部屋に格納され、内面と深く結びつきながら、生涯、子どもの人生を支えていくに違いません。
私たちは今、アウシュビッツとはほど遠いものの、生きのびるという言葉がふさわしいほど過酷な時代を生きています。
ネットを使えば瞬時に数百数千の回答を得ることができます。
SNSで24時間誰かとつながることができ、顔をみたこともない相手を、いとも簡単に賞賛したり非難したりしてしまいます。
そして、膨大な情報を操りながら、常に取り残されるような不安を感じてしまうのです。
望んでいるのは、正論や正義、政治家たちが語るようなスローガンではありません。
身体と精神、現実と夢や願いと折り合いをつけることのできる媒体としての物語ではないでしょうか。
フランクルは残酷な日常の中で「それでも人生にイエスと言う」と書きました。
貧しい時代の子どもたちは、お金ではなく、目の前の人にさえ、正直に、精一杯の愛情で向き合いました。
ささやかな物語が、生き直すためのツールとなり、未来への海図となってくれることがあります。
星の成分は水素やヘリウムといわれますが、あの日天国に旅立ったあの人が、この星空のどこかにきっといる。
そんな物語を空に描いてみるだけで、私たちは今日も一日、がんばって生きてみようと思えるはずです。
「私は人生に何を期待できるか?」
ではなく
「人生が私に何を期待しているか?」(ヴィクトール・フランクル)。
誰もが物語を作り出している。
あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいこしはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。
そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要ししており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです(小川洋子)。