家づくりの際、機能や目的を追求し過ぎると、いつしか身体も心もこわばってしまいます。思考が型にはまり、身動きできなくなくなることも。理想の体現も必要ですが、曖昧な空間に身を委ねてみることも大切です。グラデーションに内在する色を楽しみ、大きな流れにのってみる。楽しみ方は、無限。本も同じです。本との距離のとり方、物語の捉え方で、心の幅や深さが違ってきます。
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本屋さんと立ち読みの動線
親しい人との待ち合わせは、本屋さんと決めています。
少し早めに行って棚を眺めることができますし、相手が遅れて来ても、立ち読みをしていれば気になりません。
郊外の大型書店ですと互いに迷子になってしまいそうですが、街なかの本屋さんなら、店内を一周してもしれています。
長くいると、店主や店員さんの目が少し気になるものの、買うつもりなら、何分いたって、何周したって、大丈夫。
とにかく、大きすぎる本屋さんは苦手。
本の量にも人の多さにも圧倒され、いつも1冊も選ぶことができないまま、店を出てしまいます。
本屋さんに入るとすぐに、入り口付近に置かれている新刊をざっと眺めます。
多くは平積みになっていますので、台の全体を見回すのです。
何を売りたいのか、ここで本屋さんの志向がおおよそつかめます。
ベストセラーを並べず、頑なに地方出版などをメインに平積みしているところは、お主できるな、と感じたりします。
分野別の平積みもチェック。
分野によって話題の本、売れている本がわかります。
スポーツ、趣味、住宅、旅行、パソコン、いろいろあります。
POPを掲げている本屋さんは、店員さんに本好きがいる証拠。
本を開かなくても本の内容がわかったり、売れ筋かどうか、古い本でも大切にしている本の傾向が見えてきます。
以前、お世話になった本屋さんのご主人は、「かわいそうな女の子が出てきて、やがて王子さまがね」と、ざっくり話をするだけで「あっ、その本ならここね」と何万冊の中から選んでくれたものでした。
タイトルを忘れても、そうして探してくれるのです。
自分の店にある本はおおよそ、ストーリーだけでも把握しているそうです。
その後は、気になるジャンルのコーナーに移動し、そこでも新刊や話題の本を眺め、気になる本を手に取ります。
最初に見るのは、表紙の装丁、帯の言葉。
ご存知でしょうか。
帯の言葉、デザインは、著者ではなく、編集者が全権を担っているのです。
次は、本文を飛ばして、奥付。
最後のページです。
出版社を確認し、著者のプロフィール、重版・刷数、あとがき、解説などを確認したあと、目次。
数年経っているのに初版だったら、あまり売れていないのかと思い、出たばかりなのに3刷なんてことになっていたら、びっくりです。
目次では全体の流れをチェックします。
次に、また本文に戻って文字組やフォントを確認。
見出し、ノンブルの付け方を眺め、本文をぱらぱら読んで、いよいよ相性を見極めます。
立ち読みをしている人も観察。
こんなタイプの人が、こんな本を読むんだあ、などと驚くことばかり。
どのコーナーのどんな本が、どんな人に手にとってもらっているかなどの発見も楽しいものです。
こんなに若い人が、こんなに難しい本を読んでいるのかと、自分のレベルの低さに落ち込むこともしょっちゅうです。
本が汚れるくらいの読み方
かといって、頻繁に本屋さん通いをしているわけではありません。
何冊か立ち読みをし、ほしい本をいったん自分にインプットし、その場で買うことはせず、しばらくそのままにしておきます。
数日後も気になる本だけを本屋さんに行って買うか、ネットで購入することも少なくありません。
ベストセラーや売れっ子作家の本を購入することはなし。
上梓されてから数年、あるいは数十年経った本が大半です。
流行に左右されず、長期間にわたって書店流通に残る力を有している本にしか、興味が向かないのです。
本を読むときには、片手に鉛筆。
気になる箇所、覚えておきたい部分などに線を引きながら読みます。
「本が汚くなる」という人もいますが、本は読み込み、血肉になって初めて、著者も出版社も報われるのではないかという、勝手な理屈に基づく習慣です。
by CASA SCHWANCK
同じ作家の作品を再読する
いわゆる「読書家」ではありませんが、読書や資料の読み込みなど、仕事のための研鑽は欠かせません。
ときには年間1000人以上の方々とお会いし、その方々から発せられる言葉から学ぶこともたくさんあります。
一人の作家の本に感銘を受けたなら、その作家の本を徹底して読み込みます。
ノーベル賞作家のAさんに教わった読書法です。
しかも、一度読んだら終わりではなく、同じ本を何度でも読み返すのです。
そうすることで初めて、自分のものになっていく、といいます。
同じ作家で40冊以上を読んだのは、まだ5人だけ。
再読、再再読を繰り返し、ページの端を折ったり、線を引いたりして、やがてボロボロになってしまいます。
読み終えると、線を引いた部分を、メモ帳に書き写します。
コピーをして切り取り、糊付けするのはよくないようです。
自分の手で書き写すことで初めて、自分の中に刻まれます。
by カアサシュワンク
行き先を導かない本がいい
同じ本でも、30代で読んだときと、40代、50代で読んだときとでは、まったく内容が違って自分のなかに入ってきます。
深く読み込んだ本は、二度三度読んでも、そのときどきの自分に必ず、新たな発見をもたらしてくれます。
作家の小川洋子さんは、
「あなた、こんなことでは駄目ですよ。あなたが行くべき道はこっちですよ、と読者の手を無理矢理引っ張るような物語は、本当の物語のあるべき姿ではない」
と書いています。
そうした本は、読者をむしろ疲労させるだけで
「物語の強固な輪郭に、読み手が合わせるのではなく、どんな人の心にも寄り添えるようなある種の曖昧さ、しなやかさが必要になる」
というのです。
換言すれば、再読してきた本の多くは「ある種の曖昧さ、しなやかさ」を備えた本といえそうです。
物語は元々自分の中にある
家にも同じことがいえます。
引き渡しの際には当然、完成形でお願いしたいところですが、あえて機能を定義せず、施主と一緒に永遠に揺れ動く建築(空間)があってもいいはずです。
かつての日本建築のほとんどがそうであったことは、以前もここで書きました。
遊園地で観覧車に乗ると、観覧車の楽しみしかありません。
ただの広場、原っぱ、草原などでは、星の数ほどたくさんの種類の遊び方ができます。
もちろん、観覧車には観覧車の面白さがありますが、想像力を掻き立ててくれるのは、やはり原っぱや広場。
機能や目的を固定しないことで、用は解かれ、無限になるのです。
ボロボロになった本は、また新しい本に買い換え、再読します。
本棚には、同じタイトルでも、ボロボロになった本と新しい本の2冊が並んでいます。
1冊の本でも、自分から離れたり、向こう側から距離を縮めてきたり。
繰り返し読むことで、整合性がつかない心の状態に、その折々で、少しは落ち着きを与えてくれるのです。
もう一つ、繰り返すことを大事にしなければならないのは、人間が人間であることに忘れっぽいからです。
油断していると、私たちは動物にも、お金の権化にもなりかねません。
物語は元々、私たちの中にあります。
その物語を喚起させくれる本が、いま、ほんとうに、自分に必要な本です。
私たちの身体、心そのものが、メディアといえるかもしれません。
そのことに気づくとき、家という空間もまた「ある種の曖昧さ、しなやかさ」を備えていたほうが、日々、楽しみや発見が多いのではないかと思っています。
1.書店の動線もあれば、本の内容を瞬時に把握する動線もある。
2.本は汚れたっていいから、自分の血肉にする読み方をしたい。
3.同じ作家の作品を繰り返し読む。読んだからまた再読をする。
4.本も家も行き先=「生き方」を導かないしなやかさがほしい。
5.もともと自分の中にある「物語」を喚起させる本や家がいい。