目で見て、耳で聞き、肌でふれる。味覚や臭覚を含め、私たちは、常に五感を駆使して、目の前の現実を捉え、リスクを回避しながら生きています。なかでも「音」はときに視覚以上に動作や意思決定に影響を与え、長い時を経てもなお記憶に刻まれます。懐かしい音、騒音、誰かを救済し、自らを癒す音について。
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時代と暮らしを象徴する音
向田邦子のエッセイ集「夜中の薔薇」(講談社文庫)のなかに「刻む音」という短い一文があります。
朝、目を覚ますと台所の方から必ず音が聞こえてきた。
母が朝のおみおつけの実を刻んでいる音である。
実は大根の千六本であったり、葱のみじんであったりしたが、包丁の響きはいつもリズミカルであった。
目を覚ますと音が聞こえたと書いたが、この音で目が覚めたのかもしれなかった…
昭和初期の話ですが、大正、昭和以降に生まれた日本人のおおよそは、こうした音の記憶を持っているはずです。
現代の家の朝の音はというと、テレビの音、レンジのチン、トーストでポン、コーヒーメーカーのジュボジュボといったところ。
大ぶりの菜切包丁を使って料理をする音などは、あまり聞かれません。
音のみならず、匂いも違っています。
炊き立てのご飯やみそ汁、焼き魚のそれではなくコーヒーやバター、目玉焼きを焼く油の匂い。
生活のあらゆる所作から発せられる、懐かしい音や匂いが消えてしまうのは少し寂しい気がします。
子育て世代の家では、子どもたちの声が朝から響きます。
しかし、子どもが成長するに従い、親子間での会話は少なくなり、子どもの独立後は、残された夫婦で交わす会話も途切れがち。
テレビの音が、夫婦の間の沈黙を埋めてくれます。
夫婦といえども、永遠に2人の生活が続くわけではありません。
やがてはどちか先に旅立ち、残るのは一人。
テレビは沈黙ではなく、孤独を埋める装置として活躍し、いつの間にか生涯の友となるのかもしれません。
見える壁と見えない壁の差
「家に三声あり」という言葉があります。
中国の孟子の言葉で「三声」とは、老人の読経、学童の朗読・笑い声、乳児をあやす母親の声の三つをいいます。
これらの音、声が聞こえる家が「理想の家」されたのです。
昔の日本の家はLDK式に区切られていたわけではなく、開放的な空間を開けたり閉めたりしながら、融通性をもって使われました。
小さな音でも家のなかに響き、できたてのみそ汁や炊き立てのご飯の匂いも、いまより敏感に感じとれたに違いありません。
そうした空間のなかで、家族の間といえども、聞いてはいけないことは聞こえないふりをし、見てはならないものは見ないふりをする「気遣い」や「遠慮」が生まれました。
親がわが子を見守ることは、知らぬふりをすることではなく、言葉より心の働きを優先することです。
狭いけれど開け放たれた空間は、ときに「ここから先に行ってはならない」という頑強な壁となり、ときには、全ての壁が取り払われ、家族とふれあう時間をつくります。
「遠慮」は、控えめ、辞退するなどの意味で使われますが、本来は論語のなかの「遠き慮(おもんぱかり)」が語源で「考えをめぐらす」「将来を見通す」といった意味があります。
家=室のなかでも礼節をもつといった文化は、「室礼」という意匠を生みました。
家族の気配まで遮断する家
日本の住宅の指針となっている「LDK」のルーツは、1951年に全国の公営住宅の標準設計として作られた公営51C型とされます。
それまで、寝ること、食べること、くつろぐことを曖昧な空間で行っていた日本人は初めて、食寝分離、就寝分離といったテーマを突きつけられます。
そうしてDKスタイルが確立されましたが、初期の住宅には浴室はありませんでした。
その後、風呂が備えられ、ステンレスキッチンの採用など進化を遂げながら、DK+和室という間取りが公団住宅を中心に普及。
のちにマンションの間取りの原型となり、戸建て住宅でもLDKプランが定番となっていっていきます。
LDKの間取りは「洋風」と捉えられがちですが、野球のナイターと同じで、言葉自体も和製英語。
こうした間取りのモデルは、世界のどこにもないのです。
延床面積がどんなに狭かろうが、部屋割次第で2DKにも3LDLにもなり、日本の住宅は次第に、戸建てでもマンションでも、人の気配、生活の音が遮断されていきます。
近年は戸建て住宅でも断熱性能が高くなり、温度差のない大きな空間が再び注目を浴びつつあります。
家族の発する音を共有できる家が復活してきたのは、歓迎すべきことです。
音に鈍感なのか敏感なのか
家から一歩外に出ると、日本は、世界有数の騒音大国と化しているのがわかります。
駅。
ひっきりなしに構内に響き渡る電車の案内。
エスカレータ-に乗ると「エスカレーターをご利用の際は、手すりにおつかまりのうえ、黄色い線の内側にお乗りください。小さいお子様をお連れのお客様は」というアナウンスが延々と流れます。
電車の案内と重なって、注意を喚起するどころか、リスクを高めてしまわないか心配です。
ホームに立てば、耳をつんざくようなデジタル音で電車の入線を知らせ、駅員が白線の内側に下がれと叫びます。
電車では、「Next sutation is (Tokyo)」を繰り返したあと、車掌さんが「東京、とうきょう、とおきよーう」とやる気のない日本語でフェードアウト。
東京モノレール羽田空港線の車内アナウンスは、日英中韓の4カ国語放送で、終着駅に着くまで、アナウンスが鼓膜のなかで反響します。
デパートや商店から吐き出される大音量の音楽や店内放送、店員さんの呼び込みの声、救急車のサイレンが鳴り響き、イベントを知らせるクルマが、イベントの日時や内容をがなり立てます。
それでいて、幼稚園や学校の近所の住民が「子どもの声がうるさい」とクレームを叫び、「おまえの庭のカエルがやかましい」と真顔で苦情を述べる人が増えているのは不思議なことです。
運動会の「よーい、ドン」のピストルを中止した学校は何校あるでしょう。
近隣からの苦情に配慮して、京都のお寺の3分の1が梵鐘を鳴らしてないという話を聞いたことがあります。
京都に限らず、住宅地に近いところでは除夜の鐘すら中止したお寺も少なくありません。
家の中でいらつく振動と音
音は、空気の振動で伝わります。
正確にいうと、他の気体や固体、液体でも音は伝わります。
子どものときにレールに耳をつけて、遠くから来る汽車の気配を聞いたことがありました。
あれは空気ではなく、金属を伝わる音でした。
2階でバタバタ歩く振動が伝わるだけでも、うるさいと感じてしまいます。
家のなかで気になるのは、声や音ではなく、振動する音の場合が多いようです。
ドアの開け閉め、歩行の際の音、特にオーディオの低温の振動などは、音楽を聴いている本人はご機嫌でも、ズンズンという振動を感じる側はたまったものではありません。
ちなみに、音も熱と同じエネルギーの一つではありますが、それをエネルギーと実感しにくいのは、1000万人の人間が同時に話しているときのエネルギー量でも、懐中電灯を灯すエネルギーと同じくらい、わずかだからだそうです。
会話のできない車両がある
スイスでもドイツでも、22時から朝の6時までは安息時間で、多くの集合住宅ではシャワー、掃除機、洗濯機などの使用が禁止されます。
以前滞在したドイツの集合住宅では、住人から、深夜、トイレの水は流さないようにときつく注意されました。
冗談かと思いましたが、近所からすぐにクレームが来るから、といいます。
規制は平日の13時から15時もあり、休日は終日、騒音禁止。
ガラス瓶などを捨てる大きなコンテナを道路で見かけますが、瓶を入れるときに音がするという理由だけで、同時間帯はゴミ捨ても禁止されます。
子どもたちが歌を歌いながら、登下校することはあり得るのか、いまでも不思議でなりません。
駅に行けば、掲示板があるだけで、発車のベルも案内もなし。
電車に乗ると、車内で楽しそうに会話をしている乗客はほとんど見掛けず、降車駅が近付いても、意地悪をされているのではないかと思うくらいの小声で、一言、駅名を告げて終わり。
目的地に着くまで、うとうとすることもできません。
オランダでは、静かに過ごしたい乗客専用の「SILENCE」車両があります。
公共の場は静寂であることが、自己責任を前提に徹底され、街の静寂が保たれているのです。
欧州では、そのことを「秩序」というのかもしれません。
不安な人は常に急いでいる
その点、日本はこれだけ公共の場の騒音が野放しになっているのに、細かなところがクレームの対象になっていることが不思議です。
作家の瀬戸内寂聴さんが、知人から聞いたというインドの貧しいホスピスでの話を、なにかで読んだことがあります。
枯れ木のように横たわった老人のまくら元で、10歳くらいの可愛い少女が、つぼに入れた水を終日、かきまわしています。
何をしているのと聞くと、いなか育ちのおじいちゃんが、
「水の音を聞きたいと言うので、考えて、水の音を聞かせているの」
と言うのでした。
忘れられないお話です。
不安な人は、急いでいます。
不条理に耐え、問い続ける人は、静かに見えます。
音の公害は、確かにありますが
無音が落ち着くわけではありません。
気配が感じられるくらいが、ちょうどよい気がします。
図書館での人の気配くらいが
いちばん勉強がはかどります。