わずかな時間を見つけて向田邦子を読んでいる。昭和4年生まれ。世代が異なる気がしないのは、この人のシナリオによる作品が、子どもの頃からテレビドラマとして身近にあったからだろう。
ノンフィクションから読書の道に入り込んだ自分にとって、シナリオ作家の書いた活字は読むべき対象には入らず、事実、この数十年、1行たりとも入り込んではこなかった。縁がないものと思っていた。
ひと月ほど前のことだ。本棚の奥にあった「父の詫び状」を手にとって頁をパラパラめくると、止まらなくなった。人に会うのも、本を理解するのも、その時期、そのときの個性があるらしい。父が母が、あるいは祖父母たちが生きた昭和の時代の家と暮らしの相が、滲み込んでくる。
文章にも行間にも体温や湿り気、匂いがある。互いの気持ちを往来する家族の所作や言葉の往還が細かく描かれ、それらの遺伝子のほとんど全てが、いまを生きる自分たちのなかにあることに驚いた。早速、ボック・オフに駆け付け、棚にあった作者の本を全て買い付けた。12冊買って1260円というケチな買い物。
遠足の朝、お天気を気にしながら起きると、
茶の間ではお弁当作りが始まっている。
一抱えもある大きな瀬戸の火鉢で
祖母が海苔をあぶっている。
黒光りのする海苔を二枚重ねて丹念に火取っているそばで
母は巻き簾を広げ、前の晩のうちに煮ておいた干ぴょうを入れて
太目の海苔巻を巻く。(中略)
五、六本出来上ると濡れ布巾でしめらせた包丁で切るのだが、
そうなると私は朝食などそっちのけで落ちつかない。
海苔巻の両端の、切れっ端が食べたいのである。
海苔巻の端っこは、ご飯の割に干ぴょうと海苔の量が多くておいしい。
ところが、これは父も大好物で、母は少しまとめると小皿に入れて
朝刊をひろげている父の前に置く。
父はまちかまえていたように、新聞のかげから手を伸ばして食べながら…
「海苔巻の端っこ」
家のなかの表情、暮らしの道具や調理法、娘と母と祖母、父と母の距離感。それらの全てが、短い文章のなかに凝縮されている。描かれる情景に、小津安二郎の映画を重ねる。食卓での家族の動きを低い位置の定点カメラで延々と長回しをし、最初から「ある」家族ではなく「つくられていく」家族を描き出している。つくられていく、その過程に料理があり、家事があり、鍋や釜があり、会話があり、沈黙があり、洞察があり、嫉妬があり、嫌悪や尊敬、性も生も死も希望もある。
改めて気付くのは、こうした家族の暮らしや家の相が、欧米のような機能別に分断された間取りではなく、食卓にも寝床にも団らんにも使われる日本ならではの曖昧な「間」で営まれることである。小津の映画のそれのように、日本の家も暮らしも、定点撮影で全てが画面に入り込むスケールなのだ。
そうした暮らしと家のDNAがいまの日本人にも脈々と流れているにもかかわらず、家の相だけが定点撮影が不可能なくらいに、半端な広さで具現、配置、分断され「海苔巻の端っこ」のような情景が展開され得ない家と化している。このことに気付いたのは、収穫だった。
これまで1500を超える家を拝見した。振り返ると、この文章に描かれるような家族と家族の距離を測ることのできる、そんな家は三つとなかった。誤解を恐れずにいえば、家のなかでもインターホンを使わなければならないような、機能に拘束された空間が目立ち、日本人の身体性、心理性、文化性が木端微塵に壊された家が少なくなかった気がする。
家など小さな原っぱ、あるいは雑草の生い茂る庭のような空間でよい。何もない狭小な空間に放り出された不安感のなかで、人と人とが互いの「間」を推し量ろうと努力をする。これが「間合い」をはかるということだ。
西洋の石の文化、個人主義など理解できず、母性社会にどっぷりと浸かったままの日本人には、向田邦子や小津安二郎の世界で描かれる往時の家屋のスケールで十分なのではないか。
意味やデ個性やデザインを声高に主張する、設備の足し算ばかりの家や暮らしは、すぐに疲弊してしまう。