整理でも整頓でもなく、「編集」という過程を経ることなくして、質のいい結論には至れません。家は買うのはなく、建てる。施主とビルダーとのなれあいではなく、せめぎ合いから生まれる家が、本物。
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規格住宅と注文住宅の違い
リフォームであれば、直したいところがはっきりしています。
が、新築となると希望がいくつかあっても、それらを平面や立面としてイメージするのは難しいことです。
ハウスメーカーでは、そのへんを楽にしましょうと、いくつかの規格を準備して、好きなプランを指差して「これ、ください」で済むようにしています。
注文住宅はそういきません。
大切なのは、プランを煮詰める過程で施主とビルダー、あるいは設計士との間にせめぎ合いが存在するかどうかです。
白紙にプランを描いていく過程は、出版物の編集作業によく似ています。
著者の書く原稿をそのまま印字し、印刷するのであれば印刷会社だけで本はできあがります。
出版社の編集者は、著者と同等になるくらいまで専門知識を高め、その上で著者と読者の間に立って情報として編み直します。
建築と生活を編集する作業
編集者が介在することで、情報の質は大きく違ってきます。
著者がどこかの大学のエライ先生であろうと、大臣であろうと、編集者は著者と読者の間に立って全体を構築し、文章の細部、校正の段階でも何度も手を入れるのです。
エライ先生にでも「こんな書き方では読者に通じません」なんて意見を述べることは日常茶飯事で、その都度、文章は解体され、転生し、読者に近寄ります。
読者に近づくことは即ち、著者にとっても「この人、わかりやすい文章を書いてくれるんだ」という評価につながります。
著者と読者の間に、それまで存在していなかった何かが生み出されます。
しかし、住宅建築の分野では、こうした図式があまり描かれません。
施主の希望を何でもかんでも受け容れて、その結果、へんてこりんの家ができることがあります。
施主は「ここの社長さんは、何でもいうことを聞いてくれた」と満足し、ビルダーは「我が社は、施主の希望を100%実現しています」と胸を張ります。
建築の素人の希望を100%受け入れようとすること自体が、そもそもおかしな話なのです。
料理もできない、トイレや風呂の掃除もしたことがない、介護の経験もないプロと呼ばれる人たちが、任せておけといわんばかりに家を建ててしまうところにも、間違いがある気がします。
実際にかかった費用より何割も安い建築費で、二倍も三倍も満足度の高い家を建てられただろうに…と残念に思うことが実際、たくさんあります。
建築のプロは、建築と生活の両部門で、交錯する情報の編集者となり得るかどうかが大事なのです。
せめぎ合で生まれる可能性
ハウスメーカーや工務店ではなく、建築家と呼ばれるセンセイに依頼しようと考えるのも早計です。
家ではなく「作品」をつくることに一生懸命な人が少なくなく、のちのち、センセイの「作品」に合わせて生活をする悲劇が起きることも少なくないのです。
施主の希望を100%実現したつもりで「商品」としての家を建てるビルダー。
自分の「作品」を最優先する建築家。
どちらで建てても、やがては生活に支障をきたす家にななないように、自分を強く持つことが大切なのです。
必要なのは、せめぎ合いであり、闘いであり、最後は編集。
施主は、建築のシロウトです。
生活上の希望を等身大で整理し、限られた予算でいかに安く、便利で、美しく、普遍性をもったプランを希望します。
プロにはそうした希望を整理し、編集してくれることを望んでいいのです。
編集という過程を経ずに、自分の描いたプランそのままに図面を描くようなビルダーは考えもの。
「そこは、こうするともっと便利」
とか
「そんな考えはおやめなさい」
とか、ときには
「あんたアホちゃうか」
くらいの意見を述べてくれるくらいが、ずっと信頼できそうです。
建築家も同様です。
オレに任せておけ、というのは一見、頼りになりそうに思えますが、自らの才能を過信し、その土地に全くそぐわない斬新なデザインを誇示するような姿勢には、強い違和感を覚えます。
相手がセンセイであろうとなかろうと、遠慮なく希望を整理して投げかけましょう。
私たちは生活のプロ。
家に生活を合わせるのではなく、皮膚感覚で日々、生活に寄り添ってくれる家が、理想の家といえます。
家が「第三の皮膚」と呼ばれるゆえんです。
家は買うのではなく、
建てるもの。
家族の生涯を支えるべき家が
建てる側の都合で
建てられるなんておかしな話。