Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【ぼくを探しに】=自分にぴったりの「かけら」に出会うまで。

 

「ぼくを探しに」(講談社)という絵本が

デスク脇の書棚にある。

いつも、手の届きやすいところに置いてある。

シルヴァスタイン作・倉橋由美子訳。

もう何年も前の誕生日に、娘からプレゼントされた本である。

 

何かが足りない。

楽しくないと思った「ぼく」は足りないかけらを探しに行く。

かけているからだは、あまり速くころがれないし、歩けない。

それで立ち止まってみみずと話したり、

花の香りをかいだり、かぶとむしを追い越したりして

かけらを探していく。

 

途中でようやく、自分にぴったりのかけらに出会う。

やった! ばんざい!

これでようやくまん丸になれた、と思ったが

今度は花の香りをかぐことも、歌も歌えない。

 

せっかく出会ったかけらだが、「ぼく」はそれをそっと落として

またかけたからだで、ゆっくり一人ころがっていく。

ラッタッタ さあ行くぞと歌を歌いながら、「足りないかけらをさがしにね」。

 

と、こんなストーリ。

その時々に「かけた」自分を本に映して、いかようにでも読めるのが

この本の好きなところだ。

 

世の中には「かけた」部分を持ち合わせない人もいるが、

おおよその人は、それをお金や地位や他人で埋め合わそうとする。

しかし「かけた」部分にぴたりとはまっても

今度はまたむずがゆくなって、それを手放したりして、

またほかの「かけら」を探しに行く。

訳者の倉橋由美子は

「それが生まれた時からもっている自分の『死』であるらしい…」

とあとがきで述べている。

 

走り続け、求め続けて

何かで「かけら」が埋まっても、また空しい。

人間って、ほんとにわがまま。

何かを追い求めたあとに結論を得るのが「問い」であるならば、

いくら考えても結論が出ないのは「謎」。

ならば、いっそ「謎」を抱えて生きていこうと思ったりもする。

 

振り返ると、目的地に到達することではなく、

「かけた」ものを探す過程が、

いちばん楽しかったりする。人生にはそんな側面もあったりして。

 

自立も喪失も、問いも謎も、何度も姿を変えて現前する。

ああ休みたい。ああ金がほしい。

ああ…といってる自分で、まあいいか。

この本を読んで、いつも思うこと。