Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【正座】に秘められた、日本人ならではの精神性と身体性。

中国人の留学生にお話をうかがいました。「日本の生活でつらいことは」と尋ねたところ、即座に「正座」という答えが返ってきました。
意外かもしれませんが、中国は欧米と同じ「立式」の生活なのです。

日本人でも正座が苦手な人は少なくありません。冠婚葬祭などの席で正座を余儀なくされると、つらい反面、気が引き締まって、まんざらでもないと思うこともあります。自分も、疲れたときはあえて正座をします。

実は、日本に正座が浸透してから、まだ100年足らず。江戸時代中期の頃まで、正しい座り方といえば立て膝が主で、胡座(あぐら)のような姿勢だったといいます。もっとも、当時の日本の建築は板の間が大半で、畳は高貴な人のためのものでした。

 

座り方の呼称はたくさんあります。
足の裏を合わせるのが楽座(らくざ)、正座状態から足を左右にはずして尻を床につける割座(わりざ)、剣道の試合でよく見る蹲踞(そんきょ)、片方の膝を立てる建膝(たてひざ)など。
 
「正座」という言葉は1882年の「小学女子容儀詳説」で初めて使われ、座のスタイルでは新しいものであることがわかります。
貝原益軒の『養生訓』に「坐するに正坐すべし、膝をかがむべからず」という記述があり、このときの正座は胡座に近かったことを示しています。

北海道や東北でよく使われるのが「おっちゃんこ」。正座に限らず、お座りをすることです。同じ東北でも「ねまる」を使うところもあり、茨城では「えんこする」、富山では「おちんちん」、「おかじん」(福岡)、「きんきん」(宮崎)などの呼称もあります。
 


ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデは、日本人の正座を見て「脚を引き込み、腕も引き込むことで自分自身を引き込む日本人の身体は、透き通って見える」と述べています(『ものがたりの余白』岩波現代文庫)。西洋人がソファに座ってもなお、手足を伸ばしているのと対極にあり、そこに「精神的なものが秘められている」というのです。

エンデのいうように、同じ格闘技でも、西洋のボクシングは相手に向かって身体が伸びますが、柔道や空手など日本の武道は、身体を柔らかくし、透明化することに重きを置いて、自分と相手の身体を内側に丸め込む手法をとります。
洋服は手足を伸ばして着て、和服は身体を丸め込む着方をするのも同じことかもしれません。日本と西洋とは、身体性がまるで逆なのです。


そうした考え方は建築にも表れています。何かもかも形とデザインに表現し、天に向かって伸びようとする西洋建築。反対に、日本の建築は、自然に向かって水平に開くことで己の形を薄くし、デザインを抑制するかのように見えてきます。

ドイツ人の友人に、このようなことを考えるが、あなたはどう考えるかと質問しましたところ、最近は欧州の家でも日本のように靴を脱いで生活する家庭が増えている、とお答えになったので、あとの質問は遠慮しました。
 
座の姿勢や文化が、建築にまで影響していく背景を、いつかきちんと勉強できたらと思っています。
 

 
モモはじっくり考えてみました。「時間はあるーーそれはいずれにしろたしかだ。」思いにしずんでつぶやきました。「でも、さわることはできない。つかまえられもしない。においみたいなものかな? でも時間て、ちっともとまってないで、動いていく。すると、どこからかやってくるにちがいない。風みたいなものかしら? いや、ちがう! そうだ、わかった! 一種の音楽なのよーーいつでもひびいているから、人間がとりたてて聞きもしない音楽。でもあたしは、ときどき聞いていたような気がする。とってもしずかな音楽よ。」(ミヒャエル・エンデ『モモ』 岩波少年文庫

子どもたちが大好きだった本ですが、恥ずかしいことに、自分にとっては何度挑戦しても、最後まで読むことができない本でもあります。パラパラと本をめくると、宝石のような言葉がたくさん散りばめられているのですが、物語の世界に入っていくのが怖いのです。