Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

【汚れなき悪戯】=無力と純心と節度の狭間にあるもの。

小さな村があった。

ある朝、修道院の門前で、生まれたばかりの

捨て子が発見される。

僧侶たちはその子をマルセリーノと名付け、

心をこめて育てる。

 

6歳になったマルセリーノは、

悪戯ばかり。

野原で偶然に出逢った女性に、

会ったことのないママの姿を重ね見て以来、

誰かと会うたびに

「ママはどこにいるの?」と尋ねるようになる。

 

そんなマルセリーノが、

決して行ってはならないといわれていた

修道院の2階にそっと忍び込み、

痩せ細ったキリスト像と出会う。

 

彼は「空腹」のキリスト像のために、

毎日、厨房から

パンとワインを盗んで届けに行く。

 

ある日、像がマルセリーノに語りかける。

対話は毎日続き、

マルセリーノが「ママに会いたい」と告げると

像が彼を抱きしめ、

そのまま天に召されていく、という物語である。

 

神に身を捧げる僧侶たちと、

彼らに修道院から

出て行けと迫る意地悪な村長が対比されて登場する。

マルセリーノ自身も、

修道院のなかで盗みを繰り返す。

盗んだパンやワインは、

ひたすら「空腹」の像に捧げられる。

 

6歳の子どもに見えて、大人に見えなかったもの。

それはまさに、像が無言で発する

人間の行いへの飢餓ではなかったか。

捧げられたパンとワインが

それを象徴しているかのようでもある。

 

善良な僧侶たちではなく、

信仰も知らないマルセリーノの純心が、

信仰の象徴のようにさえ

感じられてくるから不思議だ。

 

その純心は常識の範囲では

あくまで無力な試みに過ぎないが、

盗みをしてまで無力を選んだマルセリーノは

像に導かれ、

ママの待つ世界へと導かれていく。

このパラドクスが私たちを静かに揺さぶってくる。

 

 

「汚れなき悪戯」(1955・スペイン)久々に、ライブラリーから取り出して観る。

 

 

新聞の三面記事的に表現すると、

両親に育てられたことのない孤児が、

悪戯や盗みを繰り返し

ある日突然、幻覚症状を持つようになって、

修道院の2階で変死する、

という単純すぎるほどのストーリーである。

 

 

振り返れば、近づけば近づくほどに

遠ざかっていくボーダー(事実)に愕然としながら、

幾度となく挫折を味わった。

海外まで対象を追いかけながらも、

プロジェクトを断念したことさえあった。

 

私たちは、自分の無力さを

棚に上げた節度のなさに常に注意を

払わなくてはならない。

見方一つで、

事実は虚実となり、虚実が真理になることもある。

 

マルセリーノの無力と純心はいつも、

人間の限界への

節度みたいなものを、教えてくれる。

精神が歪みそうになったとき、この映画は、効く。