「信用」の陰には、取引があります。不信感が少しでも見え隠れすると、私たちは本気でその人と付き合うことはできません。「信頼」は、相手に対して白紙の小切手を切ること。家族や友人をどこまで信頼できるかどうかで、人間関係の深さは大きく変わります。
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取引の関係はつらい
これまで何度か、銀行から事業資金の融資を受けたことがあります。
過去数年分の帳簿を全て調べられ、これからのこともきちんとした計画を立て、毎月滞りなく返済できる確かな根拠があって初めて、お金を貸してくれるのです。
いくら顔見知りでも、誠意など通じません。
全てに数字の裏付けが求められます。
審査が通りますと、窓口の銀行員がこういいました。
「これがあなたの信用です」
信用は、取引です。
証拠や根拠がなくても信用するのは、信頼です。
職場や取引先との間では、信用がものをいいます。
友人関係の多くも、信用に基づくものといってもいいかもしれません。
信用の多くは、あなたがちゃんとやったときだけ、あなたのことを信用します、好きでいてあげます、という条件が付いて回ります。
もし、父や母が、私がいい成績をとったとき、いうことをきいたとき、いつもニコニコいい子でいたなら、そのときはちゃんと愛してあげますよ、という存在だったら、私はどんな大人になったでしょうか。
いつでも愛されたい
何か特別なことがあったときだけ、その人を認める。
褒める、愛する。
仕事で成功した、プレゼントをもらったから、昇進した――ときは褒められ、認められても、ごく普通の日常を生きているときは、少しも注目されず、評価もされない、相手にもされない。
これではつらいです。
私たちは24時間、365日、特別なことを成し続けることなどできません。
ですから、そうした環境に置かれると、どうにかして相手の気を惹こう、特別な存在であろうと無意識で行動してしまいます。
そして、疲れてしまいます。
誰かに喜ばれるような行動だけだといいのですが、万引きをしたり、人を傷つけたりして、何とかして自分に目を向けさせよう、自分の存在を認知させようと行動することもあるようです。
そんなとき、大人たちは「せっかく信じていたのに裏切られた」というような表現を用います。
信頼は、本来、裏切られることはありません。
相手がどんな行動をしようと、相手のなかには必ず善意があること、自分で問題を解決する力が備わっていることを信じることです。
相手が間違っていようがいまいが、相手を尊敬する心の体現。
無条件で白紙の小切手を切ることは容易ではありませんが、私は本当に求めているのは信頼でしかないのです。
復讐は神さまがする
仕事で遅く帰宅したとき、奥さんから「どこかで浮気でもしていたの?」といわれるより、「遅くまで大変だったわね。早くこっちに来て、熱いお茶でも」といわれるのとでは、こちらの気持ちは全く違います。
仮に、本当に浮気をしていたとしても、後者のようにいわれてしまうと、罪の意識が増長されてくる気がします。
信頼されることは、人にとって、とても重いのです。
誰かのことを裏切ったり、疑ったり、だましたりすることより、だまされる方がずっといいかもしれません。
徹底的にだまされていると、相手にはいつか必ず、だませなくなるときがやってきます。
「助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい」
自分を信じられなくなったとき、マザー・テレサのこの言葉を、繰り返して唱えるようにしています。