高校時代のことでした。
クラスメイトの一人が「100年カレンダー」を家から持ってきました。
その名の通り、100年分の毎月の暦です。
大きさはふつうのポスターほど。
床にひろげられたカレンダーを「へえ」「ほお」と数人がのぞき込む。
が、ものの10秒もたたないうちに、全員が黙り込んでしまいました。
沈黙を破ったのは、A君でした。
「このあたりで、誰一人、いないな」。指を指したのは、90年後あたりです。
一週間後も60年後も、段がずれている程度。
60年後に一生が終わることと、
一週間後に終わることと違いがないようにも見えます。
「悲しくなってきた」
女子の一人が、静かに泣き出しました。
無言のまま、みんなその場から散っていったことを覚えています。
その十数年前にも「100 年カレンダー」が売り出されたことがあったといいます。
でも、カレンダーを販売した会社は、1年で発売をやめたと聞きました。
(現在は販売されているようです)
残された人生が、紙切れ一枚に収まっている。
生きることの意味、
明るいはずの未来が、こんなに薄っぺらに見えるのは、確かに怖い気がします。
いま、ここにある時間と、傍らや魂の奥底、それらの向こうあたりにある時間。
時間の流れ方、時間がある場所は一つではありません。
深さや流れる速さ、光の濃度が違う時間が確かにありそうです。
それらの時間を結び付けるのが
言葉や祈りであるのかもしれません。