父が亡くなったあと、30数年にわたり一人暮らしを続けてきた母。続けたのではなく、続けてくれたのです。しかし、私たちが気づかぬうちに、認知症はゆっくりと進行していました。実家を整理し、遠く離れた私の家に同居することになったのが5年前のこと。その後、いくつかの事件があって、近くのグループホームに入居することになりましたが――。
Contents
30年間の一人暮らしの果てに
母「今日は、ホウレンソウと小松菜の胡麻和えを作るから」
私「それ、昨日の夜にも作ったでしょう」
母「そうだった?」
私「何度いっても、忘れるんだから」
実家に帰るたびに、
こんな会話が増えていきました。
父が亡くなってから
30年以上にわたり、一人暮らしを続けてきた母です。
帰省できるのは、年に一、二度でした。
なんとなくおかしいとは思っていました。
認知症が進むスピードは
想像以上に早く、戸惑ったり、腹を立てたり、
泣けてきたり、笑ったりの繰り返し。
それでも、いつも
まさか自分の母がという考えがどこかにありました。
母「ホウレンソウと小松菜の胡麻和え、作るから」
私「昨日、作ったでしょう」
母「そうだっけ?」
私「ほら、このタッパに入っているから」
冷蔵庫に入っているものを、手に取って見せます。
何度も何度も、
しかも平然と繰り返される言葉に、
「さっきも同じこと言っていたよ」と
声を荒げることもありました。
それでも母は負けません。
というより、いつも平然としているのです。
母「ホウレンソウと小松菜の胡麻和え…」
私「何度いったらわかるの」
母「年寄りなんだもの、忘れっぽいのも、しょーがないんだよ」
自分で自分を突き放すように
アハハと笑う母を見ていると、
熱くなった気持ちもいつしか冷めていくのでした。
悲しい顔をすると悲しい顔に
私「午後の飛行機で帰るから」
母「今回も帰ってきてくれて、ありがとうね」
私「自分の家ですから」
ここで終わると、ちょっといい場面、
いい話になるのですが、
数分経つとこんな会話になってしまいました。
母「いつ帰るの? で、いつ来たんだっけ」
私「午後の飛行機で帰るといったでしょ」
母「そうか」
私「さっき、いったけど」
母「…」
私「…」
まるでコントです。
まともに相手をしていると、
怒りがこみあげてきます。
そして、すぐに悲しい気持ちになるのです。
そんな私の気持ちを察するのか、
暗い顔の私を見ると、
母の表情もすぐに暗くなります。
第三者がこのやり取りを見ていても、
誰もおかしいとは思わないことでしょう。
会話もふつう、表情もふつう、笑いもするし、
真剣な顔もする。
1時間もすると、誰もがあれっと
気付くはずですが、
ここが認知症の難しいところです。
近所の人も、
よほど進行した状態になるまで
気づかないという問題が浮上します。
ケアマネージャーさんの介護認定のときなど、全く別人。
ふつうのときよりも
ふつうになってしまうのですから、
認知症はあなどれません。
作り笑顔が母の表情を変えた
ある日、言葉と表情が、
母の表情を明るくも暗くもすることに
気が付きました。
きっかけはやはり
「ホウレンソウと小松菜の胡麻和え」でした。
私「母さんの作った胡麻和え、おいしいねえ」(できるだけ笑顔)
母「そう。まだ冷蔵庫に残っているよ」(笑顔になる)
私「ありがとう。いつもおいしい料理を作ってくれて、
ほんとにありがとう」(無理して笑顔)
母「上品な料理は何もできないんだけどね」(笑顔)
認知症に関する資料を見ると、
言ったり、聞いたりしたことは忘れますが、
相手の感情、表情は
しばらくの間、残像のように残るのだそうです。
理性の世界でつきあうことは難しくても、
感情や映像の世界では、
ある程度、意志の疎通はできるのかもしれません。
笑顔は笑顔の残像、
きつい言葉はきつい言葉で、傷ついたままの残像です。
思いきり、作り笑顔で
「ありがとう」といってみます。
認知症とはいえ、一人の人間。
少なくとも、
私のことはまだ「息子」として認識しています。
感謝をされてうれしくないわけはありません。
途端に、表情がやさしくなって、
親としての威厳さえ感じさせる、以前の母の顔に変わります。
私「どこで、こんなにおいしい料理を習ったの?」(作り笑顔)
母「(私の)母が、料理の上手な人でね」(笑顔)
私「へえ、すごいね」(作り笑顔)
母「昔の人は、本など見なくたって、自分で勉強したものさ」(すごい笑顔)
私「世界で最高の味だね」(作り笑顔)
母「そうでもないけど」(最高の笑顔)
初めて食べた塩なしおにぎり
人は感情の世界で生きています。
だとしたら、
互いに、いい感情になったほうがお得です。
認知症を患う人も同じです。
感謝をされて、笑顔を向けられ、
いやな気持ちになる人はいません。
へえ、ほう、はあ…と相
槌を打ちながら話を聴かれると、
表情がどんどん明るくなっていきます。
ふつうの生活を送る私たちだって、
そうなのですから。
芝居をしようが、ウソをつこうが、
作り笑いをしようが、
いい気持ち、平穏な気持ちになってもらう。
ある日の帰省から、そう決めたのでした。
実家をあとにするある日、
荷造りを終えた私に母が「これ、汽車で食べていけ」と、
大きなおにぎりを1つ差し出しました。
海苔も胡麻もついていません。
ただ、白いだけのおにぎりです。
午後の飛行機で、
いったん自宅に戻る私への
精一杯の気遣いだったのでしょう。
「おなか空いたら『汽車』のなかで食べなさい」
「ありがとう」
母が、海苔も具もない、白いだけのおにぎりを
作ったのは初めてした。
塩味のしないおにぎりを食べたのも、初めてでした。
やがて家族が壊れていく過程
その日の帰省を最後に、
実家から600キロも離れた私の自宅に
母を引き取ったのが4年前の夏のこと。
実家は取り壊し、更地にしました。
そこに至るまでの
諸手続きについてはまた機会を改めます。
母は、「空き家にすると、
非行少年たちが入り込んで、タバコを吸って、
火事になるから」
と頑なにいい続けました。
母は家に残ること、故郷の施設に入ることより、
私の住む見知らぬ土地への移転を決め、
同居を決断したのです。
認知症とはいえ、100%ではありませんので、
転居のことはしっかり認識しています。
十数年前、いつでも母と同居ができるようにと、
介護も視野に入れた
7畳ちょっとの部屋を増築していました。
同居している間はその部屋を使っていましたが、
高校生以来の母親との同居生活は
互いにストレスを抱えることも少なくありませんでした。
母親とはいえ、一度気になると、
トイレの使い方、食事中の音、
箸の使い方までも気になります。
実家では何も気にならなかったのに、
自分の家では、母とはいえ、
部外者、他人と同じと思う自分がいました。
2階で寝ていた私は、
深夜、母がトイレに行く音でも目が覚め、
のちに寝返りをする音まで聞こえるくらいに、
神経質になっていきました。
施設入居を決断したきっかけ
認知症はゆっくりと、
しかし、着実に進行していきます。
そして、9か月間の同居ののちに、
グループホームに入居することになり、
現在に至るのです。
デイサービス、ショートステイを利用しながら
同居を続けられるかと思っていました。
しかし、私たちが小一時間留守にした間、
火を扱った事故が起き、
それを機に症状は急速に悪化します。
そして、ある日、デイサービスから
出張中の携帯に電話があったのです。
母親の膝小僧全体が
水膨れになっている。
お宅で何があったのか、と問われたのです。
施設ではこのとき
家庭内での虐待を疑ったといいます。
急いで出張先から帰り、
施設にうかがい母の膝を見ますと、
確かに火傷をしたあとのようなコブシ大の
水膨れになっています。
膝の傷みから、私たちに隠れて、
お灸を繰り返していたのです。
傷みがひどかったのか、
何度も何度もお灸をして水膨れになってしまい、
そのことを言い出せずに隠していたのでしょう。
痛いでしょうといっても、
全然痛くないと、気を装っています。
驚いたのは、
お灸のセットを持っていたことでした。
実家を整理するときから、
自分の荷物のなかに隠し持っていたのです。
火の事件があったあと、
火の扱いには特に気をつけていただけに、
目を離したすきにモグサに火をつけ、
お灸をしていたことに、ショックを受けました。
以降、私自身も、眠れない日が続きました。
母の症状も、
ベッドの下にバナナを隠したり、
換気扇にトーストを突っ込んだりと、
日に日にひどくなっていました。
そうした日が重なり、
最後はケアマネージャーさんの強い勧めで、
グループホームへの入居が決まったのです。
覚悟をすることと諦めること
実家でお世話になっていた
介護の専門家の方々からは、自宅に母を呼び寄せる、
つまり居住地、家の環境を替えることで、
さらに悪い意味での障壁が生まれると「忠告」されました。
その言葉は私たち家族への「宣告」にも聞こえました。
専門家の方々の判断は、
きっと正しいのだと思います。
かつては気丈だった母ですが、
自分の異常にかすかに気付きながら、
時間をかけて
我が子に最期の自分の時間を委ねる覚悟を決めたのです。
半世紀以上も洋裁の職人として
オシャレに気遣ってきた人でもありましたが
気が付くと
自分の着る服の見えるところにまで
マジックインキで名前を書くようになり
その理由も
誰かに盗まれないため、という話になりました。
家を壊し、更地にする光景は母には見せませんでした。
工事業者に写真を送ってもらい、
後日、それらの一部だけを見せました。
部屋の隅で、後を向いて肩を震わせる母がいました。
30年も一人暮らしにさせたお詫びと、
これまで育てていただいた
感謝の気持ちで決めたはずの母との同居。
同居はすなわち、在宅介護の始まりでもありました。
自分が母と同じ認知症であったなら、
土地や家の問題ではなく、
子どものそばで生きることを望むはずです。
子どもがそれを望んでくれたのなら、
という前提での話です。
幸い、グループホームは
自宅から徒歩3分のところに見つかりました。
入居を決めるときには、
いつでも家に戻れるから、いやだったら、
すぐに迎えにいくから、と嘘をつきました。
歩いても、こんなに近くでしょ。
実際に歩いてみて、
ほんとうに3分程度なので安心したのでしょう。
案外、すんなりと入居を決め、
それからもう3年になろうとしています。
セロテープはどこにあるのと尋ねれば、
目の前にあるにもかかわらず、
封筒を開けて探したり、押入れをのぞいたり、
廊下に出たりしてしまいます。
からだは元気です。
コントみたいだねとハハハと笑うと、
母もハハハと笑います。
それぞれに決めた覚悟ですが、
この覚悟は「諦め」ではありません。
これから先、
どんなことがあっても一緒に生きていきましょう、
という決意を込めた覚悟です。
父は余命3カ月と宣告され、
ぴたりと3カ月後に亡くなりました。
最後の言葉を交わすことはできませんでした。
母には、これまで
何度も「ありがとう」と伝えることができました。
認知症になっても
こんな幸運が残されていました。
※コロナ禍になってからは、3年近く、面会できていません。
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認知症の権威が認知症になって、ようやくわかったことがある。認知症の人が見ている世界、認知症の歴史、超高齢化社会を迎える日本の選択など、この1冊でわかる認知症のすべて。