いろんな生き方があるのと同じで、自分のエンディングをどうデザインするかも大切な課題。簡素でも心のこもったおくられ方もありますし、埋葬のバリエーションも増えているようです。
Contents.
こんな葬儀はいやだから
先日「おくりびと」という映画を観ました。
ずっと以前に録画しておいたものを、もう一度観たくなったのです。
途中、何度も涙が出たのは、これまで旅立った人たちの「おくり」の光景が、映画に出てくるさまざまな死の場面に重なって見えたからでした。
父も母も兄弟姉妹が多かったので、10代のころから、たくさんの「おくり」を経験しました。
しかし「こんな葬儀はいやだ」という感想を抱いたことも少なくありません。
子どものころは、お線香の匂いも、長いお経も、大人たちの黒装束もみんな不気味でしかないのです。
映画のなかにも、日本中どこにでもある葬儀の場面が多く出てきましたが、結婚式と同様、自分らしくおくられたい、あるいはもっと儀式そのものを簡素に──と願う人は多いのではないでしょうか。
いわゆる「エンディング・デザイン」ですが、人の最期の場面を明るく語り合える時代が来たのは歓迎すべきことです。
直葬が急増している理由
世界に名を成したような人でも、盛大な葬儀を拒んで、家族や親しい人たちだけに見守られ、ひっそり旅立っていく人は少なくありません。
葬儀も簡素で、家族だけという形式も増えているといいます。
いわゆる密葬、家族葬などです。
ご遺族の意志もあるでしょうが、生前から自分の意志を主張し、自ら終末をデザインする人は周囲にも増えています。
何でもかんでも伝統にのっとり、葬儀屋に任せっきりにすること自体、不思議といえば不思議。
高級外車を乗り回しているお寺の住職に、数十万円ものお布施を包むこと自体に疑問を呈する人が増えているのもむべなるかなです。
直葬も急増しています。
亡くなった後、いったんご遺体を運んで安置し、24時間経過後、火葬場に移して荼毘に付すという方法です。
近親者のみで行うので、一般的な葬式に比べお金も安く済みますし、お経なし、戒名なしとなれば、お寺に支払う費用もなくなります。
死を受け入れられる方法
埋葬、お墓のかたちも変わってきています。
自然に還ることを実践するかのような自然葬、自然散骨、樹木葬といった埋葬が増えているのです。
樹木葬はナチュラル・デス(自然の死)という考え方の延長にあるもので、英国では遺骨を埋め、その上に樹木や花を植えたり、樹木を植えて森にしようという葬法が増えています。
私の住む街にも樹木葬専用の墓地ができました。
今後、こうした動きは一気に日本中に拡大することでしょう。
英国在住の知人は、お母さんが亡くなったあと、生前に家族で旅行で行ったグアム島まで遺骨を運び、思い出の海に散骨しました。
彼の行動は、どんなに立派なお墓を建てることより、立派なことだと感心しました。
彼自身、そのことでお母さんの死を受け容れられたと話していたのが印象的でした。
近くに住む知人は、奥さまが末期のがんと知ったときから、夫婦二人で樹木葬を選択しました。
尊敬するA先生は、お子さんのいないことから、合同埋葬を希望され、亡くなったあと奥さまは遺言通りにされ、合同墓に埋葬されました。
奥さまも同じくすることをお寺に伝えており、すでに、合同墓碑にご主人と並んで名前を刻んであります。
突然の事故や病死ではかないませんが、死期の予想ができるガンなどの病気では、これらのことを十分に考える時間があります。
顔もわからない子孫など
死に行く人は、誰しも、人生のなかで出会った多くの人の心のなかで、忘れ去られることのないようにと願います。
しかし、まだ見ぬ孫の孫の孫の孫の代まで…というのは所詮無理な話。
孫の孫の孫の孫の代の子孫たちは、顔もしらないご先祖様になど、興味などもてるはずがありません。
せいぜい同時代ともに生きてきた人たちに限られるはずです。
だったら、数十年、数百年も先には自分も宇宙のなかに身を置いて、永遠ともいえる循環に帰還するというのも意味のある考え方といえます。
かくいう私たちも、おくられ方については決めてあります。
読経なし、戒名なし、お墓は合同墓地か樹木葬。
近いうちに、先祖のお墓も合同墓地にまとめる予定です。
希望が叶うのなら、ほんの2、3行の言葉を家族に書いてもらい、そのメモの束と一緒に旅立ちたいという願いがあります。
戒名の代わりに、できるだけよく写った写真を子どもたちに配っておくことも忘れられません。
あまり考えたくない「死」のことですが、ちょっとだけ真剣に向き合うことで、ちょっとだけ「いま」を大事に生きようという気になれそうです。
直接、ご本人の話もうかがったことがあります。学者というより、近所のものわかりいいおじさん、という感じの気さくな方です。仏教に関するテーマが多いのですが、どの本もやさしくかみ砕かれているところにも、お人柄を感じます。