帰りたい。ふと、そんなことを想う瞬間があります。どこに? 私たちの帰属すべき場所や時間が、私たち自身の内側の知らないところに、刻まれているのかもしれません。家の性能やデザインも大事なことですが、私たちがほんとうに大事にすべき居場所と時間とは。
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父のすね毛のぬくもり
ふと思い出すあたたかな時間、あたたかな場所があります。
あたたかな、と聞いて、まず思い出すのは二つの場面。
一つは、子どもの頃、厳寒の地で暮らした家の茶の間に置かれた石炭ストーブ。
あの土地では、11月のはじめからストーブの火を昼夜絶やすことはありませんでした。
昼間はストーブの口を大きく開けて空気がたくさん入るようにし、細かく砕いた石炭をくべて、強い勢いで燃やします。
夜は大きな塊のものを選んで火持ちをよくし、それが朝にまでチロチロとゆっくり燃えるよう、ストーブの口を萎めて燃やすのです。
夜、家族が寝静まったあと、闇のなかで炎が揺らぐ音が静かに家のなかに響きわたり、ストーブの口や蓋の隙間から炎の灯りがゆらゆらと部屋のなかに拡がる光景が、とてもきれいでした。
もう一つは、父のすね毛です。
寒い冬の夜、父は子どもの私に「こっちに来い」といって自分の布団に私を入れ、自分の足で私の両足を包み込み、あたためてくれました。
このときのすね毛の感触がいまもはっきりと自分のなかに残っているのです。
父が夜勤のときなどは母が代わって同じことをしてくれましたが、同じ足でも、すね毛の分だけ父の足のほうがあたたかく思えたような気がします。
人間の芯のようなもの
心が癒される時間、あるいは場所。
それは案外、特定の時間や場所ではなく、家族や私自身を取り巻く、何か全体的なもののなかでうっすらと特定されるものかもしれません。
その人の奥深いところでゆっくり根づいていきながら、やがてはその人そのものを成長させていく糧、もしくは芯のようなもの。
この際、ストーブの火力をカロリー消費で述べたり、人肌やすね毛のあたたかさを、科学的な根拠で証明しても何の意味もなさないでしょう。
だからといって、家の性能や暖房設備の形態、省エネルギーのあれこれなど、どうでもいいじゃないか、というのではありません。
それらはそれで、そっちの世界のことであり、私たちは家族あるいは目の前にいる人と、そこがどんな状況や環境であれあたたかな時間や場所に変換したり、新たに創造していくことができるということを知らなくてならないのです。
帰りたい時間と場所は
退職金をはたいてオール電化の高性能住宅を建築した60代のご夫妻がいました。
数年もたたぬうちにご主人に認知症の症状が出て、施設に入居。
穏やかな生活を送っていたある日、突然、「うちに帰りたい」といい始めました。
家族は、
「そうよね、お父さん、新しい家がいいわよね」
と同情していたのですが、よくよく話を聞くと、その「うち」は新築したオール電化住宅ではなく、自分が生まれ育った「うち」であることがわかった──という話をうかがったことがあります。
ご主人が、どんな家族のなかで、そんな体験を心に秘めてきたのかは知る由もありません。
が、帰りたい場所が「家」ではなく「うち」であったことが、人の心のよりどころを示唆しています。
家族で過ごす時間が多くなるこの時期、あたたかな場所、あたたかな時間が恋しくなります。
場所も時間も、最初からそこに在るものではありません。
誰かが心を込め創るものです。
そうして創られた場所や時間は、私たち自身や誰かの大切な「うち」となり、生涯、記憶のなかで、チロチロとやさしい火を絶やすことはありません。
いま、この瞬間、
「ああ、幸せだなあ」
と言ってください。
「私、愛されている」と
思ってください。
脳は言った言葉、感じたことを「現実」と思い込みます。
そこが「うち」です。