Contents.
ミュウという鳴き声
鈍色の低い空を仰ぎ、舞い降りてくる雪の欠片を眺めていると、遠い記憶にたどり着きます。
ミルフィーユのように幾重にもなった記憶の皮膜を一つずつ剥がしてよみがえる、あの雪の日。
確か、中学2年の冬休み。
近くのスーパーの軒先で、箱詰めのミカンを売るアルバイトをしたことがありました。
空から、地面に吸い込まれるかのように細かな雪が舞っていたのを覚えています。
「これを川に捨ててこい」
店のおじさんから油にまみれた汚い一斗缶を手渡されました。
「はい」
と返事をして受け取ると、なかで何かが動く気配がします。
店の裏で野良ネコが生んだ子猫が数匹入っていると、おじさんはいいました。
「橋の上から放り投げればそれでいい。同情してはならんぞ」
おじさんの顔は少し笑って、すぐに真顔になりました。
言われるがままに近くを流れる大きな川に向かい、大きな息を一つ吸って、橋の真ん中あたりで、川の流れに缶を放り投げました。
手を離れたその瞬間、ミュウという小さな鳴き声が聞こえた気がしました。
胸が、くっとなりました。。
その日は生まれて初めて「給料」をもらう日でもありました。
家に帰ってお金の入った封筒を母に手渡すと
「頑張ったね」
といって、大事そうに神棚に置いてくれました。
父はしばらく無言でいましたが、やがて何かを思い立ったかのように、神棚から封筒を取り返し
「うちが貧乏だから、こんなことをするのか」
と、私の足元に封筒を投げつけました。
小銭がジャラッと音を立て、狭い茶の間の空気が冷たくなりました。
その日はとうとう、子猫のことは、父にも母にも話すことができませんでした。
時間が消えそうな日
ユベール・マンガレリという人の小説に「おわりの雪」(田久保麻理訳・白水社)という作品があります。
「トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ」
という1行から始まる、ある冬の父親と息子の物語。
父親は病気で寝たきり。
少年は、養老院で老人たちと散歩をすることでお金をもらい、家に入れています。
少年の夢は街の古道具屋にいるトビを買うことでした。
しかし、いくら働いてもお金は貯まらない。
母親が毎夜、ひそかに夜の街に出かけていくのを、父親も少年も知っていました。
トビを獲る男の物語を父親に聞かせるのが、少年の日課です。
父親はそれが作り話であることを知りながら、息子の話す物語に毎夜、やさしく耳を傾けました。
ある日、少年は養老院の管理人に「猫を殺してくれ」と頼まれ、実行します。
養老院で共に散歩をした老人が亡くなったあと、飼い犬の処分を請け負ってしまうこともありました。
この仕事で得たお金で少年はトビを買い、家に持ち帰ります。
しかし、トビを買ったことで、物語を父親に聞かせる時間は失われ、季節の最後の雪の日、父親は天国へと旅立ってしまいます。
少年、父親、母親。
それぞれが秘密を抱えて生きています。
不安に押しつぶされそうな現実のなかで、家族をつないでいたのは毎夜、少年が編んだ「物語」だけだったかもしれません。
やがて消えゆく命。
助けることのできなかった命。
父親のベッド脇にそっと置かれたトビ。
過去も未来も消してしまいそうな雪の日。
それらは少年の心に刻印を残すのですが、結論は曖昧なまま物語は終わっています。
かけがえのないもの
親と子の関係は、当たり前のようにそこにあるのではありません。
壮絶なぶつかり合いや葛藤を経て行き着いた関係が、最初からそこにあったかのような関係でしかないところが、家族の関係のもどかしさであり、難しさ。
かけがえのないものは、すごい速さで変化します。
変化の行き先は、別離であり、老いであり、死であったり。
本の中の少年も、老いや死を受け入れながら、少しずつ大人への階段を上っていきます。
殺(あや)めてしまった子猫。
うれしそうに封筒を受け取ってくれた母。
その封筒を息子に投げつけたときの、父の悲しげな表情。
冬になると必ず読み返すこの1冊が、残酷で悲しいあの雪の日の記憶を呼び覚まします。
誰に向かうでもなく「ごめんね」とつぶやいてみます。
窓の外の雪が、気が狂ったかのように光って見える、白い日です。
「おわりの雪」(白水Uブックス) (日本語) 新書
ユベール マンガレリ (著) 田久保 麻理 (翻訳)
山間の小さな町で、病床の父と、夜こっそり家を留守にする母と暮らす“ぼく”は、ある日、古道具屋の鳥籠のトビに心を奪われる。季節の移ろいのなか、静謐かつ繊細な筆致で描かれる物語(BOOK データベース)