Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

言葉のスケッチを集めて家づくり。

 

 

Photos by Sweet Potato..

 

同じ風景でもカメラで切り取るのと、スケッチをする、あるいはメモをし言葉に残すのとは違います。スケッチも、メモも、私たちは全身で感じることだけを無意識に選択し描いているのです。家づくりも同じ。解答ばかり求めるのではなく、いったん全身をアンテナにして感じ取り、その全身から搾り出した言葉でスケッチを描けるかどうか――。

 

スケッチブックの意味

祖父は大工であり、画家でもありました。

ほんとうは絵だけで食べていきたかったのでしょうが、何しろ、戦後で子だくさんの時代。

その日暮らしがやっとで、絵どころではなかったと思います。

 

大工仕事の合間に油彩画を描き、自分の建てた家の施主さんには屏風や襖の絵を描いてプレゼントするなど、粋なところもありました。

わが家には、いまも数十年前に祖父が描いた襖絵や屏風が残っています。

 

父の弟、つまり伯父の一人も画家となりました。

冬の日本海が好きで、ひなびた漁村を訪ねては、鉛色の海や小さな漁船、古い番屋などを描きました。

 

子どもの頃からこの伯父の描く、海にも空にも、深い陰翳を湛えた絵がどうしても好きになれませんでした。

絵を眺めると、暗くてしずんだ気持ちになるのです。

 

貧しい絵描きの生活は長く続いて、いつしか家庭も崩壊。

叔父の子、つまり、従妹も我が家で数カ月間、預かることになりました。

 

叔父は時折、絵を持ってきては、それをかたに父から借金を繰り返していました。

いくらお金がなくても、絵が描きたいのです。

そんな我が子を見て、祖父は一言も文句をいわなかったことを覚えています。

 

幼かった私は、家のなかに伯父の絵を飾らないように、父に頼みました。

やがて、叔父は友人のトラックを借りて、100号の大作まで持ち込むようになりました。

 

もはや壁に掛けることもできなくなり、多くの作品は壁や襖に無造作に立て掛けられるようになり、そうでなくても狭い家は、次第に壁が絵のようになっていったのです。

 

 

いつもスケッチブックを持って旅に出る伯父に、尋ねたことがあります。

カメラで気に入った風景を撮影し、あとからそれを見て、じっくり描けばいいのではないか。

そんな内容だったと思います。

 

カメラは見た目通りに風景を写すが、自分は目だけで風景を見ているのではない。

叔父は答えました。

 

はあ。

何をいっているか、私にはわかりません。

 

心でも記憶でも、皮膚からも毛髪からも、耳から、鼻から、全身から、目の前の風景を捉えているのだ、といいます。

 

はあ。

ふーんとため息をつくだけで、わかったようでわからないままでした。

 

やがて大人になってこの仕事に就いてから、次第にこの意味が理解できるようになってきました。

 

 

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忘れたことは不要なこと

同じ対象でも、インタビューをしたり、撮影する人によって、引き出す内容も写真の構図も異なります。

 

対象=相手は同じでも、受け取る側が違いますので、当然といえば当然。

 

対象は常に、自分自身ともいえます。

私たちは対象に投影された「私」を、見ているだけなのです。

 

取材の際、決してレコーダーを使いません。

相手の言葉を記録するのではなく、その瞬間で自分が感じたことだけを必死にメモします。

 

不要なものは、その場で切り捨てます。

書き落としたものは、諦めます。

自分のフィルターを信じ、それに委ね切るのです。

 

原稿を書くとき、ノートで確認するのは、数字などのデータのみ。

あとはメモを見ずに書き進めます。

長年、この手法を貫いてきましたが、トラブルになったことはありません。

 

写真ではなく、その場でスケッチを描き、風景を感じ取り、あとで作品を仕上げる画家の作業によく似ています。

伯父はきっと、このことをいっていたのだと、ずっとあとになって気付きました。

知らぬ間に、自分も同じことをしていたのです。

 

全身で対象を感じ取る。

その感覚を信じる。

 

人の感覚はとてもよくできていて、その場で記録したいものだけを選択し五感に刻み込んでいます。

 

忘れてしまったものは、そのときの自分とは縁のなかったもの、不要なものだったのです。

 

 

 

 

 

 

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設計者と「言葉」のスケッチを共有する

家の計画をする際、間取り図を描いたり、雑誌から素敵な写真を切り抜き、資料にするなどは大事なことです。

 

しかし、間取り図を描く際、実際のスケールはもちろん、奥行きも、広がりも頭のなかでは理解されておらず、平面的には合点がいくことがあっても、立面で認識されることはほとんどありません。

 

ちょっと描いてわかったつもりでも、全体は見えておらず、物と物、空間と空間、光や風との関係性も把握されていないままです。

 

雑誌に載っていたキッチンの写真が素敵でも、実際に具現するときは、ダイニングやリビングとのつながり、窓の位置や天井の高さなどが関係します。

 

奥様の間取り図、素晴らしいです。

と褒め立てて、そのまま家を建ててしまうような大工さんこそ、要注意です。

 

私たちは、描いた間取りも、切り取った雑誌の写真も、見たいと思うものだけを部分拡大しながら、眺めたり描いたりしているようです。

 

写真は全体の雰囲気や色の具合を設計者に知ってもらう、自分があとで思い出すための参考程度にとどめます。

 

間取り図も同様です。

こんな感じ、といった程度の資料でとどめます。

 

光の角度、四季折々の風の向き、湿度、隣家との距離などが正確に把握できていないと、間取り図など、何の意味もなさないのです。

 

 

 

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CADよりもフリーハンドのスケッチがいい

大事なことは、自分の希望をいったんメモにしてみること。

潜在的な意識を「言葉」でスケッチするのです。

 

雑誌の写真がいくらきれいでも、匂いも空気感も居心地も描かれていません。

言葉にするときは「京都の町家の土間みたいなキッチン」とか「南フランスの古い農家のキッチンのイメージ」とか、設計者、ビルダーには「こんな感じ」が伝われば十分です。

 

言葉を並べて感じるのは、自分の考えや夢や希望が、なんとお粗末だったことか、ということになるかと思います。

 

それでも、めげることはありません。

わらかないことの数だけ、あとになって、わかることの数が増えるのです。

 

ですから、50でも100でも200でも500でも、言葉を並べます。

わかることが増える。

こんなに素敵なことはありません。

 

やがて、不要な言葉もわかってきます。

不要な言葉は、自分の家にも不要なアイテムです。

 

いらない言葉、嫌いな言葉を持つことは、私たちにとって、実はとても大切なことなのです。

 

 

日本人は、こうした作業を極端に嫌います。

ブログを始める際にも、多くの資料を読み込みました。

すぐに解答を与えられないブログは支持されない、という内容がほとんどでした。

 

かくいう自分も、答えだけを求めてきたのです。

何かに困ったときは、「検索」。

すぐに答えを見つけ出そうと、多くのHP、ブログのお世話になっています。

考えるプロセスをすっ飛ばしているのです。

 

しかし、ここは、一生で最大の買い物、「家」の話。

パソコン1台選ぶのとわけが違います。

  

必要な情報を言葉でスケッチできるようになると、設計者もビルダーも格段に図面を描きやすくなります。

建築のプロは、私たち数十倍、数百倍の選択肢をもっているのです。

そこからスタート。

 

打ち合せの際には、CADなど使わず、できればフリーハンドのスケッチを叩き台にすることをお勧めします。

プロに描いてもらうのです。

 

CADなど、ビジュアルが精細であればあるほど、夢が萎んでしまう感じがするのは、私だけでしょうか。

 

こうした作業が面倒だという人は、自分のイメージに近い「商品」をパンフレットから選択できるメーカー製住宅にお願いするのが得策です。

 

家の善し悪しを問うのではなく、「商品」として「買う」家と、「終の棲家」としての覚悟をもって「建てる」家は似て非なるものです。

 

紙にスケッチやメモを書きながら、描きならの打ち合せは、夢があります。

行き交う言葉も増えていきます。

設計者、ビルダーとの信頼関係も、より強いものとなっていくはずです。

 

紙に絵を描き、言葉を書き、それを共有した家づくりは必ず、忘れられない思い出となっていくでしょう。

 

夢は、余白に描かれます。

 

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