Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

壁面コーディネートに挑戦する。

 

 

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日本人の美意識と「インテリア」

これまで、たくさんのお宅を拝見してきましたが、日本の家のインテリアコーディネートはまだまだ未熟、というのが率直な感想です。

もちろん、私自身の未熟さ、自戒を込めてでのお話です。

 

理由があります。

日本の家屋にはそもそも家具がなくても暮らせる工夫があって、インテリアという文化がなかったのです。いい悪いのお話ではなく、考え方が根本から違っていたのですから仕方がありません。

 

私が生まれたのは、5、6世帯が同じ屋根の下で暮らす鉄道官舎でした。昭和30年代に建てられた古い建物です。

父が鉄道員で、4人家族でも、6人家族でも、どの家庭も8畳1間で暮らしていました。

 

家具といえば、茶箪笥とちゃぶ台、衣装箪笥だけ。ほかの家族の部屋にも、椅子やテーブルはなかったと思います。

 

おばあちゃんの家はさすがに官舎より大きかったのですが、叔父の家族と祖父母の6人が住むその家でも、家具の数は同じでした。

 

 

昭和のはじめに建てられた家に「インテリア」は存在せずとも「美しさ」がなかったかといえば、そうではありません。

 

柱や梁には地元のマツやスギが使われ、床にはブナやサクラの無垢が惜しみなく使われていました。 

 

それらの材は、木目が見事に調和するよう「適材適所」で使われ、襖や衝立には大工で画家でもあった祖父が鶴や虎の絵を描き、障子や欄間や格子戸は、地元の職人が組子の模様を刻んでいました。

 

白い障子に揺れる庭の草木、欄間から伝わる家族の気配、すがすがしい畳のイグサの香り、朝から夕までかすかな自然光に陰翳を湛える漆喰や塗り壁など、それらは「木」と「土」と「紙」でしかないはずなのに、確かに「空間」を醸しているのでした。

 

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西洋との家の構造の違いもあります。

日本の家はもともと板の間や畳敷きの空間が連なり、仕切りといえば壁ではなく、襖や衝立、障子だったのです。

 

それらを開け放てば、柱と梁がむき出しになる、いまでいうスケルトン状態となって、壁面は少なくなります。

 

繫ごうとすれば繫ぐことができ、必要なときには仕切ることもできる空間の融通性が特徴で、部屋と部屋とを独立させて、個別にドアで締め切ってしまう西洋の構造とは正反対の機能をもっていました。

 

逆にいうと建具の数は西洋の家よりはるかに多くなり、その建具――例えば襖や衝立、欄間、障子を装飾する技術や芸術が生まれ、壁面を装飾するといった文化は希薄だったことがわかります。

このことは、古民家や古い寺社建築を見れば明らかです。

 

私たちは、こうしたデジャ=ビュを持ち合わせているはずです。

しかし、いつの頃からか洋風のデザイン、洋風の暮らしに変わっていくのですが、それらはあくまでも「風」でしかありません。

 

若い世代を中心に和の文化が見直され、望んで数十年から100年も前の農家や町家を手直しして家にしたり、お店にするケースが増えているのは、とても素敵なことだと思います。

 

 

 

 

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洋風化で置き去りにされた「壁」

洋風の生活がいけないわけではないのです。

茶の間はリビングに変わり、畳が一枚もない家も増えています。

 

が、私たちはいまだに玄関で靴を脱ぎ、床に座り、寝そべり、洋式の便器や浴槽を用い、ソファやベッドのお世話になりながら、和と洋の良さを取り込んだ暮らしを実現しているのです。

 

照明は、天井に吊るされた裸電球から蛍光灯、間接照明へと変化し、棚一つとっても、食器棚、TVボード、サイドボード、チェスト、本棚、キャビネット、吊戸棚など、数えきれない種類とデザインの製品が増えて、ゆたかな暮らしになりました。

 

かつてのちゃぶ台はテーブルにとって代わり、テーブルはダイニングテーブル、リビングテーブル、サイドテーブル、勉強机に作業机と用途によって区別され、一つの家具を幾通りもの「用」で使うことはなくなりつつあります。

 

 

そこらにお気に入りの小物を置けば、両親から片付けろと叱られ、アンティークの雑貨など、古臭いと視界に入ることさえ許されなかった時代がありました。 

 

本音では「インテリア」に戸惑ってばかりいる気がするのです。この「洋・風」の空間をコーディネートする際に戸惑うのは、家具やファブリック、照明のアレンジだけではありません。

 

私たちが、「壁」のデザインをしてきた経験が、あまりに少なかったことに改めて気づくのです。

 

かつて、絵画を飾ることのできる家といえば、多くはお金持ちでしたでしょうし、家族の写真といえば仏壇の上の遺影が真っ先に思い浮かぶくらいでしょう。

 

 

 

アート

単調な壁には大き目アートでフォーカルポイントをつくる。

 

壁を飾るインテリアアイテム

どんな家にも壁はあります。

土壁や漆喰ではなく、ほとんどがモノトーンで、壁面は空白のまま、さびしく見えてしまう壁があるのが、いまの日本の家なのです。

 

洋風の空間が定着したにもかかわらず、私たちはいまだ、その空間をコーディネートするノウハウを身に付けられずにいるのかもしれません。

 

壁に飾ることのできるアイテムを考えます。下記のようなものが、すぐに頭に浮かびます。基本的なものばかりですが、この3つを応用するだけで、ほとんどのお住まいの壁はコーディネートできるのです。

 

1.絵・ポスター・パネル

額縁のあるもの、ないもの、多くの種類があります。

飾ったからといって殺風景でなくなるわけでもなく、ここにあったらどうかしら、という程度のスタートでいいでしょう。

 

同じ絵でも、カンバスのように木枠でできているパネルは、壁面を立体的にする効果があり、通販でもたくさんの種類が入手できます。

 

私のところには、地元の美術館の広報から、企画展のたびにA全サイズのポスターが送られてきます。

その都度、細い黒枠のアルミフレームに入れ替え、アトリエに飾ります。壁面に飾るのが飽きたら、床置きで壁に立て掛ける、階段の踊り場に置くなど、移動が自在なのがこのアイテムの長所といえます。

 

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仄暗さ、程度の光だけでも空間が見違えるように変わる。

 

2.写真

家族の記念写真を飾っても、あまり冴えないのはフレームや写真スタンドが問題だったのではないでしょうか。

外国の映画ではさまになって見える家族写真ですが、日本の家では、どういうわけか、うまくいきません。

 

パネル大にするのであれば、写真展で使われるプロ用のフレームも選択肢。素人写真でもフレームを変えるだけで見違えるようになります。

最近発見したのですが、FUJI FILMのパネル加工(額装)サービス「WALL DECOR」は、自分の写真を好きな形状のパネルに加工してくれるもので、大きさ、フレームの有無や種類を選ぶことができ、写真データは簡単にパソコンから送ることができて、作品は自宅まで届きます。

カメラ屋さんに行かなくとも、プロ仕様の加工ができるなんて、すごいことです。

 

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棚と壁面を立体的にコラボする。


 

3.オブジェ

平面の壁に立体感を加えることで、空間は強烈に個性化されます。

オブジェで思い出すのが、私の友人のA夫妻。

自転車が趣味の彼らは玄関を入って真正面に2台の自転車を壁掛けし、訪問客を迎えるようにしました。もっとも、自分たちも毎日、大好きな自転車を眺めながら家を出入りできるのです。

 

壁掛け花器、時計だけも、選ぶ楽しみがあります。

板1枚で作れる飾り棚やラックを設け、そこに小物を並べても立派な壁面を飾るオブジェ。人気のウォールシェルフも安価で、壁を傷つけずに取り付けできる製品がたくさんあり、賃貸に住む人にもおすすめです。

 

結論を先に述べさせていただくと、和の伝統美を洋風の空間とコラボさせる「和モダン」などは、デザイン力だけで具現するのは難しく、和洋の建築について深い知見と考察が求められます。

 

予算があれば、インテリアコーディネーターの力を借りるのもいいのでしょうが、趣味と楽しみを兼ねて、日曜大工ならぬ日曜コーディネートから試してみてはいかがでしょうか。

 

 

www.ienotomo.com

 

  

おすすめ図書
 
 
 

ぼくはかけらを探してる

足りないかけらを探してる

ラッタッタ さあ行くぞ

足りないかけらを探しにね

 

物語は【だめな人と だめでない人のために】と、始まります。

自分に足りない何か【missing piece】を探すため、主人公の「ぼく」は転がりながら旅を続けます。

 

緩やかな線が下に1本引かれているのは地面でしょうか。

欠けた部分にぴったり合うかけらを見つけたと思っても、ほんとは合わなかったり、ぴったりだと思っても、今度は自分らしさを失ったり。

 

何かが足りない

それでぼくは楽しくない

足りないかけらを探しに行く

ころがりながらぼくは歌う

「ぼくはかけらを探してる、足りないかけらを探してる、

ラッタッタ さあ行くぞ、足りないかけらを」

 

それでも「ぼく」は、転がりながら、歌いながら、足りないかけらを探す旅を続けます。

長田弘さんが「子どもの本の森へ」(岩波書店)のなかで、こんなことを述べています。

 

結局、ぴったりおさまっちゃうと、それでおしまいになってしまうから、『ぼく』は欠けた『ぼく』のままでいないといけないと思う。絵本は、物語にゴールがあってそこに到達するというんじゃなくて、ぐるっとまわって最初にもどる。けれども、最初と状況は違わなくっても、もうすでに自分は違う自分になっている。

 

 

自分探しという言葉を、ずいぶん、簡単に使っていた若い時代がありました。探しても探しても、自分の在り処などわかりません。

インドの渡り、ユーラシアを横断し、ポルトガルの岬で大西洋を眺めても、私は見つかりませんでした。

娘が生まれ、なんとかかんとか成長して、ある年の誕生日に、プレゼントされたのがこの1冊でした。

私は初めて、私に出会えた瞬間でした。

 

 

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