Where we belong.=【家を知る・家に住む・この家で生きる】

そして、私たちの「居場所」について。

家と人と掃除の品格=【幸田文 しつけ帖】。

  

 

 照明

 

Contents.

 

モノがあふれ肥大化する暮らし

女性雑誌や住宅雑誌で「収納」の特集を目にするたび「またか」と思いながらも、つい買ってしまいます。

 

編集者の友人に聞いてみると「収納」の特集は、雑誌の売上が伸び悩んで「困ったときの収納頼み」。

毎年、繰り返し特集を組んでも、本の売り上げは必ず伸びるのだといいます。

日本人の収納好きを如実に表していることでもあります。

 

小説家であり、随筆家の幸田文(1904~1990)は、明治から昭和を生きた文豪幸田露伴の娘。

露伴の妻、つまり文の母は文が8歳のときに亡くなり、後に迎えた継母が家事が苦手だったことから、父・露伴直伝の躾が本格的に始まりました。

 

私は一人住みをするようになってからは、少ないのが有難いと思っています。(中略)老いの一人暮らしでは、不自由ない程度にしか持たぬのが、気持ちがかろやかで毎日の家事が楽です。

 

必要最小限のモノはには「厳選された」という前提があるはずです。

私たち日本人は多くのモノに囲まれて暮らしています。 捨てられないにもかかわらず、また買ってしまうのです。

 

「清貧」という言葉が流行ったのもつかの間、百円ショップは大型化・チェーン化し、これだけガソリンが高騰しても高級車が売れ続けています。

 

大型家具店・家電製品店、スーパーはどこも大盛況。

24時間営業のコンビニ、数百メートルおきに設置されている自販機。

にもかからず、冷蔵庫やキッチン収納が肥大化する一方なのは、とても不思議な光景です。

 

食べる、排せつする、寝る、働く。

この繰り返しの中で、生活することが生きること。

モノの数の中にゆたかさを見出すのではないと反省しつつも、また買ってしまうのです。

 

 

 

 

 

花

 

 

足し算ばかりしてきた生活

日本の家は、地方の都市部でも60坪の敷地に延べ床面積40坪がせいぜい。

何十年か前まで、茶の間には茶箪笥とちゃぶ台一つという暮らしでしたが、そんな暮らしも家もすでになく、鎌倉時代のスケールのままの四畳半や6畳間に、モノだけが溢れています。

 

そんな暮らしがどこか貧相に見えるのはなぜでしょう。

そのモノを整理するのではなく「隠す」ための収納であることも少なくありません。

 

旧宅で10年20年と使わなかったモノを抱えたまま、新築計画に臨むと当然「収納のたくさんある家」が必要になります。

 

アンバランスに収納空間の多い家は、限られた空間が狭く汚く醜くなるのは当然。

居心地がよく、素敵な空間にするには、デザインの質もさることながら、持っているモノを厳選し、見せるモノを限りなく「引き算」して配置することが大切なのです。

 

 

By Pixtabay.

 

居たるあたりに調度の多き 

しかし、もともとモノに溢れた文化を持たない私たち日本人には、モノが増えても、そのモノたちの間合いがなかなかつかめません。

かくいう私のデスクの周りにも百均で購入したモノが、恥ずかしながら、有り余るほどなのです。

 

欧米風の家が理想という人もいます。

欧米風、洋風という建築カテゴリーはありませんが、ほとんどのヨーロッパの家には、何十年と大事に使われてきた家具はあっても、9800円のソファやデスク、百均で買い揃えた食器や花器や写真フレームはありません。

 

彼らがお金持ちだからではなく、どんな小さなモノを買うにも鋭い洞察があり、買ったものは長く大事に使う文化が根付いているのです。

 

数年で「捨てる」モノなど、最初から「買わない」文化は、かつての日本人もちゃんと持っていたのですが、その文化の復活を期待したいところです。

 

賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き 

 

身死して財残る事は、智者のせざる処なり

 

吉田兼好の『徒然草』にあるように、老いてもなお家や財産、モノの数にこだわることは、あの時代の賢者から見ると、どんなふうに見えるでしょうか。

 

兼好が生きた時代の家には、モノといえるものなどほとんどなかったはずですが、それでも「調度の多き」暮らしのありようを「智者のせざる処なり」と厳しく問うているのがわかります。

 

いっとき「家」そのものよりも「生活」のあれこれを考えてみる。

家のプランは、モノに向き合うことから、です。

 

 照明

 

 

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毎朝、食事の前に拭き掃除をします。アトリエのデスク、床、窓枠。玄関の棚や土間のタイルなど、10分もかからない程度の作業です。

 

いまはもう5時前に明るくなりますが、冬はまだ暗いうちから。寒い日などは、面倒と思うこともありますが、5年以上も続けているので、身体が先に動くようになってきたようです。

 

最初は家族やスタッフのためと思って始めましたが、次第に「自分のために」と思うようになりました。

 

毎日拭いているはずなのに、汚れているところが見つかると、子どもたちや、仕事の関係の方々に、「あのとき、もう少しやさしい言葉をかけてやればよかった」などと、自分の行いを振り返るきっかけにもなります。

目についた汚れが自分の汚れに見えてくるのです。

 

子どもの頃、雑巾のしぼり方がへただと、よく母に叱られました。

学校の先生にも同じことをいわれました。団子にしてしぼる握りしぼりしかできず、縦しぼりを覚えても上手にしぼり切れません。

 

床を雑巾がけした後は、米から出る最初の濃い目のとぎ汁でツヤ出しをします。

年末の大掃除より、季節の変わり目の掃除を重ねるほうが、家のなかがきれいに保たれていた気がします。

 

幸田文(あや)の「父・こんなこと」にも、家事にまつわる多くの話が出てきます。

 

掃除を終えると露伴から「あとみよそわか」と声がかかります。「あとを見よ」の次の「そわか」は梵語(ぼんご)の「薩婆訶(そわか)」で「円満」「成就」などの意味があります。

 

「掃除」という家事一つにも気持ちを込め、その結果を見極める。水の性質を知り、五感を使って、しつらえの真意までも学ぶのです。

 

明治の日本人にとって、日々の整理整頓、掃除は、人生を形成する大切な要素だったことが分かります。

住空間を清潔に保つことのみならず、そこで生きる「所作」までもきれいであることを求めたのかもしれません。

 

しつらえを漢字で書くと【室礼】。

こうした家への礼節を知ることなく、スーパーで買ってきた商品のように家のことを扱う時代になってしまいました。

 

時代が違うといえばそれまでですが、日本人はこうして家にも人にも向き合ってきたのだな、とどの作品を読んでも新しい発見があるのです。

 

     

 

    

 

 

 

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